さようならを、わたしと貴方に

七日目

 翌日、兄が部屋の扉をノックする音でわたしは目を覚ました。勢いよく飛び起きて、自分の胸に手を当てる……傷も痛みも、赤色も何もなかった。あんなに強烈な痛みだったのに。信じられなくて、わたしはベッドのシーツ、服を確認したけれども、普段どおりだった。先ほどよりも強くなったノックで我に返って。慌ててドアを開けた。
「おはよう、兄さん。どうしたの?」
「どうしたの、じゃない。急がないと遅刻するぞ?」
 そういわれて部屋の時計を見ると、始業時間ぎりぎり。……どうあがいてもすでに遅刻だった。
「今日はね、ちょっと具合が悪くて寝てたの。学校は、休むわ」
 そういうわたしを、兄はまじまじと見た。本当は体調が悪くないのが、ばれてしまったのかしら。落ち着かなくて、視線をさまよわせる。
「そうか……確かに目も少し充血しているしな。ゆっくり休んだ方がいい。最近、無理してるようだからな」
「別に、無理はしてないわ? ちょっと欠席が多いかもしれないけれど」
「よく休め、ということだ。連絡は自分でできるな」
「ええ、大丈夫。今夜も遅いの?」
「ああ。悪いとは思ってるんだが……仕事が立て込んでてな。じゃあ、いってくるから」
「うん、いってらっしゃい、兄さん」
 ドアを閉めてからわたしは慌てて付け加えた。
「兄さんも、身体には気をつけてね」
 ああ、という微かな声が聞こえて、兄の足音が遠ざかっていった。聞こえないとわかりつつも、わたしはもう一度、いってらっしゃいと呟いた。ドア越しに、最後になるかもしれない挨拶を。
 兄が仕事へ行った後、わたしは部屋のカーテンを閉めた。いつもよりも、差し込む光が眩しく感じられたから。身体をもう一度確認してみたけれど、特におかしなところはなかった。ほんのすこしだけ、兄の言ったとおり、目が充血というか……赤みがかってはいたけれど。特別優れてもいないけれど、別段悪くもない。頭の辺りが、若干ふわふわとした感じはあったけれど、考え事をするのには何の問題もなかった。ただ少し喉が渇いていたから、リビングへ行って水を飲んできた。
 一つ深呼吸してから、昨夜の彼の言葉を思い出してみる……準備をしろ、と言っていた。いったい何の準備かと思ったけれど、どう考えてもわたしがここを出て行く準備だろう。億劫に感じる反面、連れて行ってもらえるのだという奇妙な安堵感も感じた。部屋の中を見渡してみて、持ち出したいものを探す。絶対に持っていくのは、一冊の愛読書。これだけは、譲れないわ。それを本棚から取り出すと、小さな手さげカバンへとしまった。服の替えもいくつかもっていこうかとも思ったけれど、遊びに行くわけじゃない。無駄なものは持っていかない方がいいに違いないと思った。結局他に持っていきたいものは見当たらなかった。
 ただ、ベッドサイドの写真立ては二つとも、写真を裏返して入れて置いた。兄さんならきっと捨てないで、とっておいてくれるはず。その写真立ての側に、携帯電話も電源を切って置いた。もう使うこともないだろう。もともと、必要最低限の連絡にしか使ってなかったのだけど。
 それからわたしは、兄の分の夕食を作りにリビングへと向かった。早すぎるとは思ったけれど、あれやこれやとしているうちに、だんだんと眠くなってきていたから。さっき起きたばっかりだっていうのに。ぶつぶつといいながらも仕度を進めると、普段よりも料理の匂いが鼻についた。しっかりとラップをして、冷蔵庫へとしまう。作り終える頃には、猛烈な眠気に襲われていた。でも、せめて寝巻き以外に着替えておかないと……まぶたがくっつきそうになりながらも、上はシャツと上着、下はジーンズへと着替えた。念のため、靴も部屋へと持ってきておく。なんとかそこまで済ませてから、わたしはベッドへと倒れこむ。瞼を閉じると、瞬く間に眠りへと落ちていった。


 眠気に襲われるのも突然だったけれど、覚醒も突然だった。
ぱちりと、いきなり目が覚めて。わたしは目を細めながら、部屋の時計を見た。時間は……深夜の一時頃だった。兄さんは、もう帰っているのかしら……? それにしても昼間から、こんな時間まで眠っていたのかとかなり驚く。もはや睡眠時間とかそういう問題じゃないわね……やっぱり、どこかおかしいのかしら。そうは思ったものの、体調は昼間よりはすこぶるよかった。
 頭もすっきりとしているし、心なしか昼間よりも暗いのに、よく見える。
 窓の外を見ると、綺麗な満月が浮かんでいた。暗闇でも見えるのが珍しくて、きょろきょろとしていると。
「やっと起きたのか」
 窓の側から彼の声が聞こえて、わたしは飛び上がりそうなくらいに驚いた。
「ちょ……あなたいったいいつからいたの?」
 ベッドの側へと立つ彼に問いかけた。まさか寝ているところを見られたりはしていないだろうか。
「ついさっき、な」
 答えになっているのかわからない返事が返ってきて。わたしは何かを諦めた。気にしないのが一番だろう。
「体調など、変わったところはあるか」
 そういわれて、わたしは気になっている部分、変わったところなどを話した。彼はそれを聞いて少し考えるような仕草をした。
「それと、喉がやたらと渇くわ。水を飲んでいるけれど」
「……あとでまた飲めば収まるだろう」
 何を、とは思ったけれど、わたしは聞かなかった。代わりに聞きたいことがあったから。
「ねえ、髪の色を変えることって、できるのかしら?」
 彼の上着の裾を引っ張りながら、そう聞いた。昼間鏡で見たとき、目の色は少し変わって見えたけれど、髪の色は黒いままだったから。彼はいきなり消えたりできるんだから、出来るような気がしていたのだ。
「何でそんなことを……」
 彼は眉をしかめながらわたしを見た。何の意味があるのか、と聞かれているように思った。
「前から、変えてみたいと思っていたのよ。あなたならたぶんできるでしょう?」
 それくらい自分でやれ、と突き放されてしまった。何をどうやるのやら、まったくわたしは知らない。そのまま諦めずに、しばらく彼と押し問答していると……深いため息をつきながら彼がいった。
「……何色に、しろというんだまったく」
 そう問われて、わたしの頭の中を、太陽の光に反射して光る、金髪がよぎったけれど。窓の外の満月を横目で見て。
「月……」
 今なんといった? そんな怪訝な顔で見つめられてしまったので、今度はしっかりという。
「あなたが見上げている、月の色がいいの」
 不思議そうに彼は瞬きをしてから、わたしに目を閉じるようにいった。今度は痛みはないだろう。目を閉じていても、髪に彼の手が触れるのが感触でわかった。声に促されて、わたしは目を開ける。視界を掠めた色に驚きつつ、テーブルから手鏡を取り、姿を映した。
「あなたには、月が赤く見えているのね」
 わたしの髪は、赤い、赤い色に変わっていた。緋色というよりも、深紅に近いかもしれない。深いけれども、はっとするくらい鮮やかに見えるときもある。……とっても綺麗な色。素直にそう思った。
「お前の瞳と、同じ色だ」
 そういわれて鏡を見ると、確かに赤色だった。髪よりもずっと薄い色だったけれど。いつのまにこうなったのか。そんなことはもうどうでもよかった。誰がみても、わたしだとは気づかない姿になった。嬉しいのか寂しいのかよくわからない。
 静かにたたずむ彼へとわたしは聞いた。
「子守は嫌といっていなかったかしら……」
「俺は、子供は嫌だといったんだ」
 つまり、馬鹿なことをしなければ、大丈夫なのかしら……? しっかりすればいいのよね。わたしはそう思い込むことにして、色の変わった髪を手で弄んでいた。すると、突然控えめなノックの音が聞こえて、わたしは自分の耳を疑った……
「澪、ちょっといいか?」
 続けて聞こえてきた兄の声に驚いて、わたしは今度こそ飛び上がった。やっぱり、兄さんはもう帰っていたのね。わたしはベッドに入ったまま返事をした。
「眠っているならいいんだが……」
「まだわたしは起きてるわ。どうしたの、こんな時間に?」
「いや、特に用があるわけではないんだが、な。開けてもいいか?」
 わたしは兄にそう聞かれて、思い出した。――わたし、部屋の鍵を掛けてないわ。
 どうしたらいいかと焦りながら、隣の彼を見たが、無言でドアの方を見ているだけで。ガチャリと響いたノブの音でひやりとしたけれど、何故かドアが開くことはなくて、代わりに。
「行くぞ」
 隣の彼がそういったのが聞こえた。その言葉を聞いて、わたしはほんの少し戸惑った。何も今じゃなくても……そういう思いもあったのかもしれない。でも、今行かなくていついくのだろう。矛盾している。
「いるなら開けてくれないか? 何か嫌な予感がするんだ」
「兄さん、それはきっと気のせいよ。何もないもの」
「ならどうして開けないんだ、澪っ?」
 今まで、聞いたこともない必死な兄の声を聞きながら、わたしはベッドから降りる。
「平気よ。何もないんだから」
 そういいながら、彼の傍らへと近寄る。そう、何もないわ。嫌な予感なんて、気のせいに決まってるわ。わたしはもうじき、何処かへいってしまうんだもの。気にすることなんて。
 そうしている間にも、ドアノブの音は激しく大きくなるものの、以前としてドアは開かない。ほんの少しだけ、その大きな音を怖いと感じるわたしがいた。
「くっそ……何で開かないんだ? 澪、鍵を掛けてるなら開けてくれないか。それとも壊れてるのか?」
 答えないまま、わたしは彼につれられてベランダへと来ていた。ここには、落下防止用の柵……というか手すりがついている。とても頑丈なものだ。
「ここから、先に降りていろ」
 彼はそういうと、ベランダの下……地面を指差した。…………わたしの部屋は二階なのに。
「ちょっと、無茶いわないで」
 小声で彼にそういったのだけれど。
「無理ではないだろう、平気だ。今部屋をでていくのと、どっちが無茶か考えろ」
 そう彼にいわれて、手すりの上まではなんとか登った。手すりに腰掛けている状態で、下をのぞき見て。その中途半端な高さに不安がいっそう募る。死にはしないだろうけど、どうみても無事で済むとは思えない。
「や、やっぱり無理よっ」
 身体の向きを変えて戻ろうとしたとき、うっかり手を滑らして、落ちかけた。手を慌てて伸ばしたけれど、手すりには届かなくて。
「えっ……嘘――きゃぁっ!?」
 地面に向かって、落ちる、と思ったとき、すごく強い力で上へと引っ張りあげられて、肩の骨がわずかに軋んだ。そのまま、部屋の中まで引っ張られた。驚きに目を見開いたままのわたしの前に、焦った顔をした彼がいて。
「この馬鹿がっ!頭から降りる馬鹿が何処にいる!?」
 ここにいる、といいたかったけれど、もっと怒られてしまいそうだったから。
「今のは降りたんじゃないわ。落ちたのよ、予想外の事故なのよ……あぁ、死ぬかと思った」
 わたしは座りこんでしまった。……また腰を抜かしたみたい。情けないと思う間もなく。絶え間なく聞こえていたノブの音が一瞬だけ止んで。
「おい――他に誰かいるのか? …………誰だ」
 とても低い、押し殺したような兄の声が聞こえて、自然とわたしの身体はこわばった。めったに兄さんは怒らないのに……今、きっと怒ってる。頼りない、わたしに対して? それとも、彼に対して?
「澪……ドアの側にいるなら、危ないから離れておけ」
 そういう兄の言葉が聞こえたと思った瞬間、何かを壊すような強い音がして、ドアが蹴破られた。
「ちょっと、兄さん!?」
「ちっ……行くぞっ」
 わたしは驚いて、思わず兄を呼んでしまった。彼はドアが蹴破られたの見るなり、わたしを横抱きにしてベランダから飛び降りようとした。わたしはそんな彼の服を引っ張る。あともう少し。もう少しだけ待って欲しい。
「準備はしておけといったはずなんだがな」
 忌々しそうにいいながらも、わたしを横抱きにしたまま、ベランダのすぐ側で彼は立ち止まった。
「澪っ!?」
 傾いてしまったドアを尻目に、兄が部屋の中へと飛び込んできた。そのままの勢いで、わたし達の前へとやってきた。わたしは彼に抱えられたまま、首を後ろに向けて、兄の目を真っ直ぐにみた。一瞬、兄が怪訝そうな顔をしているのがわかったけれど。気にせずに、わたしは兄に向けて、お別れを。声には出さずに、さようならの言葉を紡いだ。兄さんにはちゃんと伝わったかしら……? 確認を、してはいけないのだけれど。呆然とわたしを見つめる兄をその場に置いて。
「行きましょう」
 わたしは彼にそう声掛けた。その声を聞いて、兄がわたしの方へと手を伸ばしたけれど。その手が届くことはなく、微かに髪に触れただけ。――彼は、わたしを抱えてベランダから飛び降りた。微かに聞こえる兄の声を感じながら、今度は声に出して呟いた。
「さようなら、兄さん」
 この声も、きっと届かない。





 いつまでたっても開く気配のないドアに痺れを切らして、渾身の力を込めて蹴破った。
 そうして澪の部屋へと入ると、見知らぬ男と赤髪の女性がいた。男が女性を横抱きにしていて、今まさにベランダから降りようとしているようだった。一瞬戸惑ったものの、女性の顔を見て、すぐに妹だとわかった。姿が変われど、見間違うことなどありえない。何が起きているのかまったくわからず、澪を呆然と見ていると、彼女の唇が動いて。――どうして、さようならと動いたのか。それが理解できずに、呼びかけられない。そうしているうちに、澪の声が再び聞こえて。慌てて手を伸ばしたけれど、彼女の髪に触れただけで、すり抜けていった。
 二人が飛び降りてすぐ、ベランダから下を覗き込んだが、誰もいない。暗いとはいえ、満月だ。それなりに明るいし、そう遠くにはいってないというのに見つけられなかった。
「確かに、今触れたのに」
 急激に眩暈を覚えてよろめき、ベッドに片手をついた。ふと、サイドテーブルに置かれた写真立てに目が止まった。
「これは確か……一緒に映って欲しいと、ねだられたときの」
 あの時は、いつもは大人しい澪がしつこくて、ついつい折れてしまった。懐かしさに目を細めながら、写真立てを手に取ると、真っ白な色が映っていて。写真が裏返しになっているのだと気づいた。それに、テーブルには妹の携帯電話が置かれていて。無意識のどこかで、彼女がもう戻らないのだと悟って。写真立てを強く握り締めると……ガラスが割れた音が聞こえた。




「まさか、兄さんがドアを蹴破るなんて……思わなかった」
「ずいぶんと焦っていたようだが?」
 月光に照らされながら、人気のない夜道を二人で歩く。
「これで、兄さんも楽になるはずだわ。誰もいないもの。幸せに、なってほしい」
 ひどくわがままを言っている自覚はあった。
「俺には関係のないことだ。……お前が、選んだのだから」
 わたしの隣を歩く彼がいう。そう、わたしは自分で選択したのだから。振り返ってばかりもいられない。未練もなにも、全部置いていくのだから。……ぜんぶ。
「そう、それだわ」
 急に声を大きくしたわたしに、彼が訝しげにいった。
「いきなりなんだ、やかましい」
「わたし、全部置いてきたから、名前がないの。……付けて? お前じゃないのは、確かだから」
 彼を追い抜いて、振り返りながら言った。名前がないなんて、不便だわ。彼はしばらく考えるそぶりをしてから……
「零。零はどうだ?」
「ゼロ……今のわたしには、ぴったりね、何もない」
 わたしはそういって、彼にたぶん笑いかけた。もしかしたら、泣きそうに歪んだ顔だったかもしれないけれど。そのままの距離を保ったまま、少し無言であるいた。 わたしが持っていくのは、この記憶だけ。ただの過去でしかない、記憶。他はこれから見つければいい。
 不意に、後ろから聞こえる彼の足音が止んで、わたしも立ち止まった。振り返ると、彼がまっすぐにわたしを見ていた。……初めてかもしれない、まっすぐ見られたのって。自分のものとは違う赤い瞳を美しく思った。そのまま、彼はわたしにこういった。
「ここから、いったい何処へ行くつもりだ? 行くあてはあるまい」
 何処へ行くか、ですって? それをわたしに聞くなんて、ひどい。答えは、一つしかないけれど。わたしは大きく息を吸い込んで、答えた。
「さあ……? 何処へでも連れてって。あなたと二人なら、構わない」
「果てがないかも知れんぞ?」
「なら、どこにあるかも解らない、終わりを探しに行きましょう」
 おどけたように、くるりと回りながらわたしは言う。一人ではないんだもの。わたしのことも、彼ならきっとずっと覚えていてくれるわ。忘れないでいてくれる。何故だかそんな確信があって。
「夜が明ける最後の瞬間まで、わたしを一人にしないで……それだけでいいから」
 そういって、わたしは彼の深い瞳を覗き込んだ。彼は微かに口元を歪めて――笑ったのかもしれない。
「そうか」
 一言だけ呟いて、わたしの頭に、ぽんと軽く手を置いた。
 思わず泣きそうになって、わたしは空を見上げた。綺麗な、綺麗な満月が夜の空に浮かんで、暗闇を照らしている。強く吹いた風が、赤い髪をさらっていく。わたしの、赤い髪が風に揺られて――
 仰ぐ月が、紅く見えた。