イドの水底に映す

 古びた木造りの家の広い庭の真ん中に、その井戸はある。水はとうの昔に枯れていて、使い物にはならない。
 この家に越してきたときから、何度も私は井戸を覗き込んでいる。底が見通せたことは一度もない。
 井戸の底にはなにがあるのだろうか。枯れ果てた草花か、動物のなきがらでもあるのかもしれない。
 ただ硬い土があるばかりかもしれないし、ごつごつとした石に覆われているのかもしれない。
 どこかで聞いた話では、井戸の底には死体が入っているという。
 似たようなもので、宝物が隠されている、なんてものもある。どちらもほぼ噂だろう。
 そんなものは与太話。実際に誰かが死体を捨てたのかもしれないし、宝物を隠したのかもしれない。
 けれども、ほとんどは井戸の底に対する好奇心から生まれた、ただのお話。覗き込んでも、ぽっかりと暗い穴が広がるだけ。
 昼も夜も、ひたすらに深く暗い井戸の底。私はいつも、井戸の底に何があるのかを、知りたいと思っている。
 死体でも宝物でも、ごみでも何でもいいのだろう。暗く深い底には、絶対に何かがあるはずだと信じてやまないのだ。


 仮に、井戸の底には死体があるとしよう――なら、イドの底には何があるのだろう?


 むき出しになった自分がいるのだろうか。  日常生活の中では埋もれてしまって、本人すらも気付かないような、ささいな感情。ストレスや、欲望。
 そんなものが、渦巻いているのだろうか。本当の自分なんて、むき出しにでもならないとわかりはしない。
 怖いけれども、私はそれをも見てみたいと思う。
 井戸とは違って、イドの底にはたっぷりとした水がたまっているのだろう。
 澄んでいるかもしれないし、底がわからぬほどに淀んでいるのかもしれない。
 ゆらゆらと自分の内をたゆたえば、イドの水底を見ることができるのだろうか……

 私たち家族がこの古い家に引っ越してきたのは、二年ほど前になるだろうか。
 過労で父がなくなってしまい、母、兄、私に妹。家族四人で母方の祖母が持つこの家へとやってきた。
 私たちが住む以前に誰かに貸していたらしく、電気も水道も通っていて、不自由は特になかった。少し不便といえば、交通面くらいで。
 山に近いところにあるので、バスなどがほとんど通っていなく。商店街などもけっこうな距離を移動しないといけなかった。
 それでも、母は毎日働きに行き、兄は通信制の学校の課題をこなしながら、アルバイトもこなしている。
 主には母が働いているのだけれど、今の家族の柱は兄だった。
 父がこの家にいたとしても、兄の方が大黒柱というものには向いていたかもしれない。
 私たちの母には、浪費癖があった。自分で稼いできた分を盛大に使うだけなら、問題はなかったのだけれど。
 父が稼いできた分まで使ってしまう。 それなりに、母は稼いでいたのだけど、それでも使ってしまう量の方が多く……父は一生懸命働いていた。
 母も、それなりに働いていた。 母は自分を着飾ることが多かったけれど、私たち子供にもよく色々なものを買い与えてくれた。
 浪費癖があるだけで、性格は悪くなく、むしろ優しい母だったから、私たちは母のことを嫌いではなかった。
 どうしようもないその癖は、なんとかならないかと、兄はよく頭を抱えていた。
 この古びた家に越してきてからは、母の浪費癖は少し落ち着いてきていた。
 さすがに大人一人で子供三人の面倒をみるのは大変なのだろう。できるかぎりの節約をしても、少々苦しいのは事実。
 それでも、毎日の生活はそれなりに居心地がよかった。
 母は主に夜の仕事をしていたので、帰りが遅くなることが多かった。そのせいで妹がよく淋しがっている。
 こんな生活が続くのだろうと私は思っていた。いつかは、私も妹も、兄も働いて。そうして暮らしていくのだと。
 平和すぎる日常の中では、小さなストレスや不満なんかは底の方へと沈んでゆく。底が高くなってきたころ、ようやく気付くのだろうか。
 小さなことでも気になって、イドを覗き込んでしまうのだろうか。水底には、ろくなものが映ってはいないというのに。

 それは、本当にささいなことだった。私の就職先が決まり、残りの高校生活を持て余していたころ。
 しばらく落ち着いてきていた母の浪費癖が、少しずつ戻りはじめていた。
 最初は、ちょっとしたアクセサリー。次に、質のいい化粧品。その次には、高価で豪華な洋服……今の仕事場に必要なのかどうかはわからなかった。
 お金を使うのは、やはり楽しいのだろう。母は上機嫌だった。にこにことしながら、何かほしいものはある? と私たちによく聞いてきた。
 私も妹も、特になにもねだらなかった。兄にいたっては、仏頂面で母をたしなめていた。
 家計が苦しいのは、全員がわかっているはずだったから。そうして、だんだんと母の帰りは遅くなり、朝方に帰ってくるのが普通になっていった。
 
 それはある日の夕食時。私と碧也が作った料理を、天音と三人だけで囲む。
 あいさつをしてから、いつものように食べ始める。そうしていると、妹が食べながらぽつりといった。
「最近、母さんの帰り、遅いね」
 そうだね、と私は返事をした。兄は眉を寄せたまま食事を続けている。きっと、仕事が忙しいのよ、と天音に言い聞かせる。
 まるで小さな子をなだめているようだと思った。
「忙しいにもほどがあるんじゃないか。最近、妙に遅いし、化粧も濃い」
 普段と同じ、低い声で碧也がいう。怒っているわけではないようだが、気に入ってはいないみたいで。
 そんな兄の様子に気付いているのかいないのか、天音がいう。男の人でも、できたかなぁ、と。
「まぁ、一応母さんも女性だしね……ありえなくはないけれど」
 私はそういうと、ちらと兄の顔を盗みみる。そのはずだったけど、ばっちりと目があってしまった。
「別に、それは構わないんだよ。ただ、いくらなんでも使いすぎだろう」
 そういわれて、今朝の母の姿を思い出してみる。どぎついんじゃないかというくらい、濃いメイク。口紅がたっぷりと塗られていた。
 髪にはゆるくパーマがかけられて、ふんわりとしていた。ああ、まるで恋人に会いに行くようじゃないか。
 口を動かしながら、天音がいう。
「わたしはねぇ、綺麗なお母さんも好きだよ。でもね、エプロン姿の方が好きだなぁ」
 外にいるよりは、家にいてほしいのだろう。
「最近はあんまり家にいないから、ちょっと退屈。たまにね、お父さんがいたらなぁって思うよ」
 ごくり、と音を立てて飲み込んでから、妹はそういった。それを見て碧也がたしなめる。
「天音」
「何? お兄ちゃん」
「口の中のものは、飲み込んでから話そうな。つまったりしたら、大変だろう」
 そういうと、兄は妹の髪をくしゃりとなでた。そうされた妹は、うれしそうに笑った。
「あと、父さんの事は仕方がないんだから、あまりいわないようにな」
 わかった、といって、妹は食事を続けた。
 仕方がない、といった時の兄の顔が、私は気になった。言ってることとは裏腹に、顔が歪んでいたから……ほんの少し。
 まるで、仕方がないなんて思っていないかのよう。深く聞くつもりはないけれど。
 今はほとんど父さんの代わりみたいになっているから、兄も色々と大変なのだろう。
「まぁ、無駄遣いについては俺から母さんに聞いておくから。それでいいよな、雫音?」
 ぼうっとしながら食事をしていた私は、いきなり話をふられてびっくりした。
 うっかりあまり噛んでないものを、飲み込んでしまうくらいに。むせつつも、私は同意を返した。
「ええ。兄さんがいいなら、それで構わないわ」
 注意して止まるとも思えないけれど、何もしないよりはマシだろう。私がやるよりも、碧也がしたほうが効果があるに決まっている。
 どうも、私と妹は兄に依存しているような感じがする。父がいなくて、代わりみたいで、頼りになるからだろうか。
 頼りにするのはいいけれど、負担にはなりたくない。
「収入が増えるか、人が減るかするともうちょっと楽なんだけどなぁ……」
 どこか上の空でそういう兄に私は答える。
「大変なのはわかってるんだけど……もうちょっと、待って欲しいなぁ。そうしたら、私も働くから少しはましになると思うわ」
「ああ、わかってる。正直、無事に仕事が見つかって嬉しいよ。ありがとうな」
 そういうと、兄は私の頭をふわりとなでた。親になでられる子供のように、自然と顔がほころんでしまう。
 そういえば、天音が生まれてからはしっかりしないと、と気を張っていたから……こういうのは、ずいぶんと久しぶりな気がする。
 兄にこうされるのは、好きだ。天音も甘えん坊だけれども、私もそうとうな甘えん坊なのかもしれないと思った。
 妹も時折母のまねなのか、私の頭のなでてくることがある。兄にされるのとは違ってかわいらしく、ほほえましい。
「そろそろ、ご飯食べてくれよ。洗い物ができない」
 いつのまにか食事を終えていた兄がそういう。見ると、妹もほとんど食べ終えていた。どうも、考え事をしすぎたらしい。
 私は慌てて箸を進めた。ごちそうさま、と兄に食器を差出すと、私は自室へと向かった……

 おざなりに勉強をしてから眠りについた私は、真夜中にふと目を覚ました。時計を見ると、いわゆる丑三つ時。
 母さんは、もう帰ってきているのかな……とだけぼんやりと寝ぼけた頭で考えた。
 気付くと、部屋の中の空気が少し悪かった。どうも窓を閉めっぱなしにしていたらしい。少しくらい空けた方が風通しがいいというのに。
 私はベッドに膝をついて、カーテンをゆっくりと開けた。
 私の部屋の窓からは、広すぎる庭がよく見える。月が綺麗な晩、星がきれいな夜もよく見えるから、気に入っている。
 カーテンを開けて、空を見ると、半分の月が輝いていた。雲が多く、ちらほらと月が見え隠れする。視線を庭に落とすと、枯れた井戸が見えた。
 そして、井戸のそばに誰かいるのに私は気がついた。……二人、いるのが見えた。
 私はベッドをおりて、窓際へと近寄った。この方がよく見える――兄と、母だった。
 こんな夜中に何をしているのだろう、と思った。兄は母と話をすると言っていたけども、なにも外でする必要はぜんぜんない。
 少し秋めいてきたころ、肌寒いだろうに。
 月明かりがあるとはいえ欠けているし、二人の姿はぼんやりとしていて、まるで影絵のようだと思った。
 夜にまぎれた二人は、いったい何を話しているのだろう。私は瞬きをするのも忘れて、影を凝視した。
 私が気付いてから少し後。影が、もみくちゃになった。何やらもめているみたいで。
 影が混ざりあい、どちらがどちらなのか分からなくなる。
 かろうじて、背の高さで区別がつく程度だった。
 やがて、兄と思しき影が、母と思しき影を、枯れ井戸の中へと落とすのを、私は見た。
 そうして、井戸のそばには影がひとつきりになった。
 私は勢いよくカーテンを閉めて、ベッドの中へともぐりこんだ。今見た光景が信じられなかった。まるで、何かのお芝居を見ていたかのようで。
 もみあい、落ちる影が何度も何度も、頭の中で繰り返されて、息苦しくなった。
 どうして、とかなんでとか、疑問が先行して、ありもしないことを想像してしまう。
『父さんが死んだのは、お前のせいだ』
『悪いのはあたしじゃないわっ!』
『母さんが無駄遣いばっかりしているから、父さんが倒れたんだろう』
『あたしだって、頑張って働いてたのよ!? 責任を転嫁しないで頂戴っ』
『それは母さんだろう。お前のせいで、父さんは死んだんだ。責任をとってくれよ』
 ああ。兄は母とどんな話をし、どんな会話をして、どんな反応をしたのだろう。何をいったかなんて、私にはわかりえないこと。
 それなのに、頭の中で勝手に言葉が浮かびあがっては、消えていく。なんて野蛮な妄想なんだろう。
 でも、兄が母を殺したのは確かなのだ。その事実が、ぐるぐると心の中で渦巻く。
 同時に、底知れぬ欲求も私の中で渦を巻いた。どうして、兄が母を殺したのか知りたい。
 どうして、井戸の底へと突き落としたのか知りたい。
 母に、問いたい。井戸の底にはいったい、何があるの? ねぇ、教えて欲しいのよ。
 落ちるのは、痛かった? 殺すのは、苦しかった? それとも何も感じなかったのかしら?
   一瞬で意識は途絶えるの? 上からじゃ見えない井戸の底で、何を考えるの?
   ねぇ、自分の息子に殺された気分は、どんなものなの? 自分の母親を殺した感想は?
 私のイドからとめどなく湧き上がる、疑問。すべてが知りたくて知りたくて、しかたがなかった。
 でも、兄に聞くことなんてきっとできない。私が見てたのは、知らないはずだもの。
 私さえ、何も言わなければ、母はどこかへいってしまった……そういうたぐいのことになるだろう。
 妹は何も気付かないだろう。天音は、純粋で無垢だもの。
 あの子は、こんなことを知らなくてもいい――――でも、ワタシは知りたい。
 ゆらゆらとたゆたう感情と疑問の渦に抱かれたまま、私は眠りに落ちた……

 翌朝、私はいつもどうりに兄と接した。私が見ていたなんて知らない兄は、いつもどうりに笑っていた。
 何も知らない妹も、いつもどうりだった。
 ただ、天音が母がいないのを不思議がっていたが、碧也が理由を説明していた。仕事にでもいってしまったのだろうと。
 休日は、ちゃんと帰ってきてたのにね、と天音は不思議がっていた。
 今日は休日で、私と妹は休みだったけれど、兄は課題をだしてくるから、と学校へ行ってしまった。
 家の中には、私と天音の二人きりになった。しばらくトランプなどをしていた。そのうち飽きたのか、カードを投げ出して、天音が言った。
「ねぇ、雫音お姉ちゃん。庭にさ、大きな古い井戸があるよね?」
 私は何故かぎくりとしながら、妹の質問に答える。
「大きいかはわからないけれど、あるわね。もう使うことはできないけれど」
 何かを捨てて隠すくらいにしか、今は使い道などないだろう。いったいどうして、井戸の話なのか。
 水が入っていればよかったのにね、とソファーで足をぶらぶらと揺らす。仕草は退屈そうだけれど、天音の眼はきらきらとしていた。
 まるで、何かおもしろいものを見つけた子供のよう。
「あの井戸の中って、水が入ってないなら、何があるんだろうね?」
 ごみでも入ってるのかな? と妹は無邪気に首をかしげた。私は内心それどころではなかった。
 やはり血がつながっているからなのか……私が知りたいことを、まさか聞かれるとは思わなかった。
 でも、なんと答えよう。嘘は教えたくない。でも、本当のことなどいえない。
 井戸の中には、お母さんがいるのよ、なんて。一人悩んだ私は、一般的な話を口にすることにした。
「そうね……よくある話では、宝物が埋まってるって聞くわ。後はねぇ、物騒な話だけれど……死体が入ってるともいうみたい」
 へえぇ、と妹は瞳を輝かせながら話を聞いている。無邪気なのが怖い。でもさ、と天音がいった。
「お姉ちゃんが、見たわけじゃないんでしょ? わたしものぞいてみたことがあるけど、真っ暗で何も見えなかったよ。一体誰が中をのぞいたのかなぁ?」
 本当に。いったい誰がこんなことをいいだしたのだろうか。宝物はわからなくもない、見てみたいな、と思えるもの。
 でも……死体なんて。見つけても何もいいことはありはしない。人を怖がらせるだけの話なのだろうけれど。
「それがよくわからないから、色々な話があるんでしょうね……。さ、変な話はおしまい。次は何をする?」
 私は話を打ち切って、天音にそう聞いた。ちらばったカードを集めて、箱へと戻す。片づけている私を見ながら。
「次は……TVゲームでもやろうかな。あ、学校の宿題があったような気がする」
「それじゃあ教えてあげるから、ゲームは後回しにしなさいね」
 トランプをしっかりと戻してから、私は妹を部屋へと連れて行った。めんどうくさい、と呟きながらも、足取り軽く階段を天音がのぼっていく。
 誰かと一緒に勉強するのが久しぶりなのだろう。本来は母がよく教えていたから――――母さんの分まで、私が面倒みてあげないと。
 もう、いないのだから。
 そうして、日が沈んで暗くなるまで、私は妹に勉強を教えていた。

 夕食の支度をしようとしていると、兄が帰ってきた。学校の用事はすんだらしい。鞄を部屋に置いてくるなり、てきぱきと夕食を作り始めた。
 こういうのはなんなのだけれど、兄のほうが全体的に私よりも行動が素早い。
 やることなすこと、全部。下ごしらえをしかけていた台所を見て、私が作ろうとしていたものがわかったらしい。そのまま、進めてしまう。
 そうなるとたいてい私は、食器を並べたり、兄が準備したものを調理したりする。
 ソファの上では、天音が漫画を読んでいた。目はページを追っているが、なんとなくつまらなさそうに見えた。
 二人で調理を進めていると、漫画から顔をあげて天音が言った。
 私は、材料を炒めている真っ最中だった。じゅうじゅうと音がしていたのに、やけにはっきりと聞こえた。
「ねえねぇ、お兄ちゃん。井戸の底にはさ、何があるか知ってる? 底っていうか、中なんだけど」
 隣で食材を切っていた兄の手が、刹那止まった。
「……さぁ、知らないな。何があるんだ?」
 そういうと兄は再び手を動かした。すぐに、トントンと小気味いいリズムが戻ってくる。
 私は、何も聞こえないようにと祈りながら、わざとフライパンを音をたてて動かす。
「あのね、井戸の底には、死体があるんだって! すごいよね」
 そうか、という兄の声はいつもどうりで。でも、その目はとても鋭利な輝きをしていて。冷たくて、まるで剃刀のようだと私は思った。
「そんな話、誰から聞いたんだ? クラスメイト達が話してたのか?」
「ううん。お姉ちゃんから聞いたの。よく、そういわれてるんだって」
 ねっ? と背後から天音に同意を求められて、私は困った。ええ、よくあるわよね……妹にそう返しながら、傍らで食材を刻む兄から、強い視線を感じていた。
 見られている、と思った。同時に、気付かれた、とも。フライパンの中の食材から、かすかに焦げた匂いが漂ってきていた。
 私はなにくわない顔を装って、火を止めて食器へと盛り付ける。やっぱり、少し黒くなってしまった。
 お姉ちゃんが焦がすなんて珍しい、といいながら妹がのぞきこんでいる……私の中を見られたような錯覚があった。
「天音、見てみたいのか? 井戸の中」
 何かの食材を調理しながら、兄はそういった。意味もなく、心臓がどきどきして息苦しいと思った。兄の問いに、妹はそっけなく答える。
「ううん。のぞいても真っ暗で見えないし。明るくたって、別にみたくないかな。中に入りたくもないもん」
 なんだかすっごくジメジメしてそうだから……と天音は言った。妹の言葉を聞いて、何故か安心感を覚えた。
 ただ、何があるのか気になっただけ、と妹は付け加えた。
「確かに、何があっても関係ないだろうな。自分が殺したわけじゃあないんだから」
 出来上がった料理を皿に盛り付けて、兄がそういう。少しだけ、笑ったような声音で。
 嘘。
 ねえ兄さん、それは嘘でしょう? だって、確かに私は見たもの。あの夜の影絵を。
 家には他の人なんていないんだから、見間違えたりはしないわ。母さんも……いないのだし。
「雫音は?」
 そう聞かれて、私は一瞬、何を聞かれているのかわからなくなって、呆けた。
 きょとんとしてたか、ぽかんとしてたか……口が少し開いてしまったのは事実だろう。すぐに井戸の事だと気づいて。
「私は……うぅん、ちょっとだけ。ちょっとだけ、見てみたいかもしれないわ。普段見ることができないでしょう? 落っこちたくはないけれど……兄さんは?」

 自分が殺した死体があるかもしれないところを、覗き込んでみたい?

 余計な言葉を口から滑らせないようにしながら、尋ねた。少しだけ怖くて、少しだけわくわくした。
「――――俺、か。井戸の底なら……見てみたいかもしれないな。ろくなものじゃないだろうが」
 私も、井戸の底は見てみたい。兄さんのイドの底も見てみたい。心がざわざわと波立った。ゆらゆらと波紋が広がって……何が映るのか。
 たぶん、私はぼうっとしていたのだろう。冷めないうちに食べるぞ、という兄の声で我に返った。
「そうね……いただきます」
 その日の夜は、なかなか寝付けなかった。

 兄が井戸の話をしてから数日間、霧雨のような雨が降り続いた。三日ほどでやんで、天気はもとに戻った。
 雨が降った後だからか、空が高く、澄んでいた。無数の星が瞬いていて、とても綺麗な夜だった。
 私は夜も遅いというのに、自室でぼんやりと空を眺めていた。兄は部屋で勉強でもしているのだろう。
 妹はもうとっくに眠っている。今日は遊んできたようで、疲れていたからぐっすりだろう。
 透明だけれども吸い込まれるように深い空を見ていて、私の中はあんなにも澄んでいない、と思った。
 きっと、どんよりとしているに違いない。色々なものが渦巻いているから。
 とりとめのないことを考え続けていると、扉をノックする音が聞こえた。ベッドから降りて、鍵をあけると、そこには兄が立っていた。
「まだ起きてたか。星がすごく綺麗だ。庭にでて見ないか? きっとよく見える」
 星なら部屋からでも十分に見れたけれど、私はうなずいた。部屋の空気がよどんでいるような気がしたから。外は、気持ちがいいだろう。
 うすいカーディガンを羽織ってから、庭に出た。
 頭の中はぼんやりと。心の中はざわざわとさせながら、庭を歩く。前を行く兄の足取りはしっかりとしていて、迷いがない。
 前を行く兄の背を見ながら歩いて、気付くと、井戸のすぐそばへと来ていた。
 きれいだな、という兄の声は、私の耳を素通りしていった。そのくせ、心に波紋だけは残していった。
 空を見上げて、その次に井戸の中をのぞきこんでから、兄が言った。
「水が残ってたなら、星が映って綺麗だろうな」
「水がにごってたら、見えやしないわ」
 私の水底は、全然見えないもの。にごりすぎて、淀みすぎて。底が、見えない。ないのかもしれない。
 だからこそ、見てみたいのだけれども。イドに波紋が広がる。兄の言葉一つ一つが、石のように奥深くへと沈んでいく。底は……見えない。
 まるで夜の静寂のように、無言の時間が訪れた。自分の鼓動がひどく響いて、うるさかった。沈黙を破ったのは、碧也だった。
 それはたった一言で。それでも安定を崩すには十分で。
「見たのか?」
 こちらを振り向きながら、投げかけられた質問。答えることは簡単だった。でも、私は肯定も否定もせずに、ただ黙っていた。
 沈黙こそが、肯定のようなものだったのだけれど。何も言えず、まっすぐに兄の眼を正面からみた。黒い虹彩の奥は、濃くて見通せない。
 ふいっと、私から顔をそむけると、兄は空を見ながら言った。
「俺、もう少ししたら学校をやめて、就職しようと思ってる」
 私が働くのになんで? なんていえない。私はおそらく、もうじきいなくなるのだろうから。
「そう。見つかるといいわね。頑張って」
 なんてからっぽな言葉なんだろうと思った。でも、兄が働くなら、妹は大丈夫だろう。
 二人きりだろうと、一人でないなら暮らしていくこともできるだろう。
 いつのまにか振り向いていた兄が、じりじりと近づいてくる。私は、ゆっくりと後ろへと下がる。
 すぐに、硬い感触を背中に感じた。あぁ、井戸がある。あぁ、私は殺されてしまう、と思った。
「井戸の中身が、知りたいんだろう? なら見てくればいいさ。そうしていつか、俺に教えてくれよ」
 そういうと、兄は私を突き飛ばした。いや、軽く押した、という方が正しいのかもしれない。
 それほど力は入っていないだろうに、私の体は穴へと向かって、ぐらりと傾いていく。それはスローモーションの刹那。
 わたしは、にいさんになら ころされてもかまわない
 そんな思いが一瞬頭の中をかすめて……泡が、はじけた。
 私のイドから次々と浮かびあがり、消えていく。
 一人で死ぬのなんていやだ。怖くはないけれど淋しい。私はただ見ていただけなのに。だれにも言ったりはしないのに。
 兄と妹が二人きりで暮らしていくなんて。妹だけが可愛がられるなんて。私の方が、天音よりもさきに生まれているのに。
 敬愛なのか、独占欲なのか。醜いみにくい感情が、はじけて爆ぜて、水底を揺るがしていく。
 その小さいけれども大きい波に飲み込まれて、私は――――兄の腕を引いた。
 体を傾けながらだから、ほとんど力は入っていないはずなのに。まるで、私のように兄の体がかしいできた。
「一緒に落ちましょう。深い、深い底まで。兄さんも見たいんでしょう?」
 不意をつかれた兄の表情が網膜に一瞬で焼きついた。そして、二人で井戸の中へと落ちていった。

 もしかしたら、底がないんじゃないか。そう思ってしまいかけた。
 永遠に落ちていくような錯覚が一瞬か、ずっとか、続いていた。
 でも、途中で鈍いような鋭いような衝撃を体に感じたから、底はやっぱりあったのだろう。
 水でもあれば、楽だったのかもしれないけれど。意味もなく、そんなことを考えた。
 夜空の星の光も、真昼の太陽の光も届かない、暗くて深い井戸の底。たぶん、私の上か、下か、右か左か。兄もいるのだろう。
 私がわがままで連れてきたのだから。今、あの家には妹一人だ。これからずっと。
 本来はしてはいけないことをしたのだろうけれども、罪悪感はなく。むしろ、兄と一緒……独占できたということから、優越感さえ感じていた。
 暗闇の中に、焼きついた兄の表情が現れては消え。妹の笑顔もうっすらと浮かんで。微かに、母の顔も。
 あぁ……今この中には、どこかに母さんもいるのだろう。どうでもいい、ことだけれど。
 音もまったく聞こえず。それでもまだ微かに自分が生きているということがわかる。兄はわからない。
 耳が聞こえていないし、目も見えていないのかもしれない。
 私は静寂の中、開けていたはずのまぶたをおろす。深く深く、溺れていくような、沈んでいるような感覚。井戸の底から、イドの底へと移り変わっていく。
 あれだけ波だっていた水面も、今は穏やかすぎて。ゆらり、と少しずつ何かが浮かび上がってくる。
 それは――――幸福そうに、けれども歪んでいる、私の笑顔。イドの水底に映すのは、ほんとうの私。
 やっと、やっと底が見れた。井戸も、イドも。
 兄も見れただろうか……と思いながら、意識を沈めた。
 きっと、兄の水底には歪んだ笑みが映っているのだろう。私も同じ、人殺しだもの。