Nec possum tecum vivere, nec sine te
見届けるのが自分の役目だと、彼女はそう告げた。背に赤い翼を抱く少女。
今も昔も人の背に翼が生えていたことはなく、渇望に留まるばかり。
空への憧れ、自由の象徴として知られる翼。人が持ちえないものでありうるならば、幻想だろう。
それでも私はたしかにこの瞳で見て、その体にも触れた。気狂いではない。
白ならば天上の使い、黒ならば堕ちたる哀れみ人。赤ならば何を表すのかと訪ねたことがある。
少しかなしげに微笑みながら、彼女は罪の色だと答えてくれた。大罪人の証なのだと。
古き民族に神として崇め祭られたこともあれば、魔女として迫害の憂き目にあった時代もあるという。
歴史上の話としてはよくあることで目新しさは感じられない。妄言として捉えることもできる。
選択肢ならば出会った瞬間にあった。頭のおかしい人がいると、警察に突出せばそれで終わりだったろう。
彼女と会ったのは夜の路地裏で、私は少々酒精にまどろんでいた。ありもしないものを見るほど酔っているのかと、驚いた記憶はある。
私の脳が作り出した幻覚かと思えば、少女は言葉を話し、あまつさえ微笑んでみせた。この瞬間に囚われたのだろうか?
史実など人が綴ったものに過ぎず、留まることのない時間の流れに埋もれたものが多々ある。
だから本来は、有り得ないと否定することはできないはずだ……そう私は考えている。
愛すべき平穏に飽いていたのかもしれないと、今なら考えられる。
故に、私は彼女を認識した。酒精などはとうに吹き飛んでいたにも関わらず、だ。
背の赤に見惚れながら、細く柔らかい髪に触れてくちづけた。あたかも恋人の真似事をするかのように。
必然などではなく、巡り合えたのは運のいい……いや、不幸と呼ぶべき偶然なのかもしれない。
脆弱なものさしで測れないほどの価値はあるのだから。ほんの少し視点を変えればいいだけのこと。
ごく普通の人間として、二十年と少しを生きてきた私の人生で唯一の特異点――私は異形に恋をした。
まずあの時はどうしたものかと悩んでいただろう。目の前には翼もつ可憐な少女。静かに微笑んでいるだけ。
人通りの少ない路地裏とはいえ、まったく誰も通らないというわけではない。
今は私だったが。違う人が見つけたのならば、追い払われるか捕まるか。否、気付かないという可能性もある。
酔いの醒めた思考を巡らせれば、思いつくのはただ一つ。私は彼女に対して興味を持っている。
話をゆっくりと聞きたいのならば、くつろげる場所へと向かえばいい。都合のいいことに私は一人暮らしだ。
彼女の手を引いて歩きだそうとして、はたと足が止まる。目立つものがひとつ、どうすればいいだろうか。
背の物はどうにかならないのかと彼女に訪ねると、ひとつ頷いて。後ろを向いてほしいと言う。
私は背を向けて、数秒待っただろうか。くい、と手を引かれたのでみると、翼はもうなかった。
どんな仕組みかと疑問に思いつつも、彼女を連れて自宅へと向かった。
幼子をさらっているような奇妙な背徳感に包まれながらも、私の足が再び止まることはなかった。
人のいない部屋独特の空気に包まれた自室。春が芽吹く前のうすら寒い季節。
明かりをつけて、石油ストーブに点火した。じきに部屋の中は暖まり、吐く息は色をなくすだろう。
彼女をみると、いつのまにかソファに座っていた。物色するかのように調度品を見渡している。
ぶしつけな見方ではなく、そう……子供が物珍しくて見るような。無邪気さを孕んでいた。
いまだ季節は春を迎える前であり、少し厚めのコートを着ても肌寒さを感じる。
彼女が着ているものは薄いワンピースで、それは春先あたりからのもの。寒くはないのだろうか。
キッチンで私は二人分のコーヒーを作った。好みがわからないので、両方ともブラックで。
くつろぐ彼女へ渡すと、ありがとうと言ってから口をつけた。熱いから気を付けてください、と言うよりも早かった。
一口を飲み込んだ彼女は苦い、と顔を歪めた。温度の方は気にならなかったようだ。
私は少し笑みを零しながら、テーブルの上のシュガーポットを彼女に差し出す。五つほど入れただろうか。
カップを揺らすようにして砂糖を溶かすと、彼女はふたたび口に含んだ。
今度は、顔がほころんだ。
望みの甘さになったようだと一安心して、ブラックをすする。黒い水面に揺れる自分の面を見てから。
そう、矢継ぎはやに質問を浴びせたと記憶している。
私の知りうる限りの歴史、史実をストックから紐解いては彼女に尋ねた。結果……面白くもあり、落胆も混じった答えが返ってきた。
一部の史実は事実であるが、真実とはかけ離れたものであるという事。それらに関わる人物の話なども聴いた。
人が自分たちを一つの種族と見なして記してきた歴史には、ほころびや歯抜けが多々あるということだ。
彼女もすべてを知っているわけではなく。理由は、その場所にいなかったからだという。
出会ったときのように、ふらりと世界の何処か一ヶ所にいたのだろう。彼女はひとつきりの存在のようだ。
面白いと思えるものは……今では失われてしまった技術。未来に当てはまりそうなものから、古にひっそりと息づいていた魔法とも呼べる技術。
複雑すぎて理解できなかったが、錬金術の類などは金を積んででも知りたいと思う輩がいるだろう。
大体のことを尋ね終わると、次は彼女自身について質問を重ねた。
これについては、なんともすっきりしない部分が多かった。名前などは、忘れてしまったと言われたくらいだ。
名前も忘れ、出生……彼女は人間ではないようだが、生きてきた年月も長くはあるが、正確には覚えていないと。
こうなってくると、本来の姿は無形なのではないかとさえ思えてくる。
彼女いわく『人の姿で在りたい』と願った時から人間の形をしているらしい。姿形は、時代により変えているらしいが。
個人的に気になったのは、いったいどういう身体をしているのだろうかと。飲食物は口にしていた。
人の姿、というからには臓器が欠けているということもなさそうだ。普通の人と同じ、と彼女は言った。
背に翼がある時点で普通の人ではないのだけど。自由でいたいから持っているとのこと。
存在すること自体に食物の摂取は必要ではないらしい。食べられるが、栄養にもならないのだろう。排出もされないといっていた。
医者でなくともばらして見たい気もするが、私はまだ罪人になるつもりはない。
彼女の与えてくれる知識や情報には非常に興味深いものも多い。だがそれを繋ぎとめておきたいとは思わない。
私が興味を抱いているのは彼女という存在自体だ。それ以外は付随するものにすぎない。
そもそも、必死になってまで何かを繋ぎとめたいと思ったこと――私にはあっただろうか?
もともと異性の友人は少なかった。いや、同性も同じようなものだが。
それでも他人との親密なやりとりに憧れていた時期はあり、遊んでいたこともあった。
数えられる範囲の出来事であり、後腐れのない関係ではあったが。
通っていた大学を優秀な成績で卒業した私が就職先に選んだのは、小さな企業。
もっと良いところへ行けると、複数人の教授に推薦されたことはまだ記憶に新しい。
特別人より高い地位に、興味がなかっただけだ。生きていけるだけの糧が得られれば、それで充分だった。
だから私が生涯こんなにも執着したのは彼女だけだった。いい意味でも、悪い意味でも。
きっかけはなんだったろうか。
ほんの些細な、一瞬の衝動。時間は夜だったか……彼女を押し倒してみた事があった。もちろん戯れだ。
夢を見始めたのは遊びでも……その内側は限りなくリアルで生々しいものだった。
これは過去の女性には失礼かもしれないが、誰よりも美しく素敵だった。まるで天使のように。
拒絶されたのならば、踏みとどまれたのかもしれない。でも彼女はそうしなかった。
いつも……だんだんと見慣れ始めていた笑顔のままだった。あぁ、前にも誰かとそんな事があったのだろうか?
そうして私は彼女に溺れていった。
幾度か肌を重ねても、重ねるほど深く溺れていき、得体の知れない想いだけが残った。
可憐な少女であるが、例えるならば狭間だろうか。成熟しかけた過程の果実。無意識に色香を振りまいているような。
無邪気に楽しそうに何かを見ているときもあり、花を売る者のようにしなやかな動きで誘う時もある。
あまりにも無防備なので、閉じ込めてしまいたいと思ったこともある。
日中、彼女はどこかにいっている。私の住んでいる街か、それ以外の知らぬ場所か。
夜になると私の家にひとりで戻ってくるから、さほど気にしてはいない。
必ず帰ってきてくれる、何故かそんな確信を抱いていたから、余計な心配はしていなかった。
だが、彼女が誰かの目に止まってしまったらと気が狂いそうになる時もあった。
普通の相手ならば強硬手段にでてしまえばいいのだろう。しかし彼女は手篭めにしても壊せない。
だから壊せたのではないかと錯覚するくらいに、乱してみたいと願うときもある。
それでも彼女は笑うのだろう――遊びそのものなのだから、彼女にとっては。
いつだって、そうだ。彼女は遊んでいる、それはもう無邪気に。
戯れにくちづけるとくすくすと笑みを零し――本気で掻き抱けば瞳に冷色が混じる。
私ひとりが、興じた遊びに本気になっているようで滑稽だ。
彼女が洩らす声に理性がブラックアウトしそうになる。かぼそい糸で繋ぎとめるのは戯れという認識。
遊びのつもりだったのに、気がついた溺れていた、本気になっていた。よくある話だとは思っていた。
まさか、他人に執着することのない私がそう想う日が来ようとは。
私は戯れではない愛が欲しい。
「私の言葉は、どうすれば貴女に届きますか?」
何度目かも忘れたくちづけのあとに重ねた言葉。
「言葉は届かない。あなたが人でいる限り」
どこか冷めた色で私を見ながら、告げられた言葉。
人で在り続けることなど、彼女といられる価値に比べれば塵のようなものなのに。
「いつか貴女は何処かへ行ってしまうだろう。最後まで、傍にいられるだろうか」
最後の瞬間が望めないのならば、貴女が止めをさしてくれたならいいのに。
「一人にしないでおくれ。いっそ共に死ねたなら」
「人を捨てるのは、許さない」
そんなことしたら嫌いになるわ、とわらう彼女。ひどい人だ。
私も人でなければよかったのに。貴女の片翼をもいで、この背に縫いつけてしまいたい。
飛べなくても構わない。彼女の傍にいられるのならば……
「永遠に夢を見ていたいのに、現実は止まれない。どうか忘れないで欲しい」
色褪せぬ姿が最後の夢となっても、消える瞬間には跡形もない。
貴女にとっての刹那でも、たしかに存在していたのだ。
私が。
異形の貴女を愛した人間が。
私が彼女と出会ってから、何年が過ぎただろうか。
職場での地位が少しだけあがり、私の肌は張りを失いつつある。
部屋の壁に掛けられたアンティークの時計の音。私の時を刻み、想いを切り刻む。
あと少し、そうしたらまた彼女はやってくるのだろう。
思い出は増えていくばかりで、狂おしいほどの熱は心に澱むばかり。
幾度伝えようとも、彼女は受け取ってはくれないから。
今では戯れに混ぜるばかり。甘ったるい言葉を吐き疲れても、苦痛には思わない。
化生は魔性、それは事実かもしれない。
私は実際に溺れ、今もなおこれから先も続いていくのだろうから。
こんな私のことを不幸だと憐れむものもいるだろう。私からすれば、そんな人の方が不幸なのだが。
後悔などはしていない。私は選択に疑問を持てるほど賢くはない。
彼女という存在を知ることができたのは、紛れもない……時の悪戯。
ソファに腰掛けて、じきに隣にくるであろうぬくもりを想う。願いを聞き届けるモノなどいないと彼女はいつか言ったけれど。
はかりしれない枝の先に、ひょっとしたらがあるかもしれない。
叶うのならば、最後は貴女の傍で終焉を。
私は、貴女なしでは生きていけそうにないよ。
ここの所雑音ばかり拾うようになった耳に、聞き慣れた足音が混ざる。
組んでいた足を崩し、ゆっくりとソファから立ち上がる。
一歩、また一歩とドアの前まで歩いていく。
ぴったり残り一歩、ドアの前で立ち止まると。
「こんにちわ、ジェヴァンニ」
変わらぬ姿で愛しい人が、ドアを開けて。
「貴女は残酷な人だ」
私は肩をすくめてから、両腕を広げて出迎える。
ずっと私は――異形に恋をしている。