窓の隙間から、穏やかな日差しが降り注いでいた。
私は一人、自室で読書をしていた。
しかし、文章を追ってはいるものの、頭には全然入ってこない。
――私が彼女を壊してから、数ヶ月が経過していた。
今は夜の仕事を止め、昼の仕事だけを行っている。
別に私一人でもこなせるのだが……
ルイがまた邪魔をしだしたというのも、あるのかもしれない。
「なんだか、調子がいまいちですねえ」
本を閉じて、固まってしまった体を、軽く伸ばして解す。
何故だか思い出すのは、あの日の事ばかり。
気分がよろしくない。
昔の事に拘る等、私らしくない。
わかってはいるのだけれど。
それでも、気が付くと、いつも思考は過去に向かってしまう。
アトリエを覗いた時。
あれは、何となく足を向けただけだった。
戦争が終結して、あの場所がどうなっているのか。
それが少しだけ気になっていたのだ。
モノトーンには、大量の部品が散乱していたのを覚えている。
時折出会った機械人形には、酷く睨みつけられた。
人間が、憎かったのだろうか。
地下へ降りると、地上よりも多くの部品があった。
地上に住む人間が、捨てたのだろう。
機械人形になど、もう用はないという事か。
戦争を終えた人間が、出した答え。
長い間放置していたから、壊れているかもしれないと思ったが。
昔と変わらずに、私のアトリエは存在していた。
全体的に、丸みのあるデザイン。
天井に開いた亀裂から、地上の光が降り注ぐ。
中を覗いてみると、窓からはうっすらと明かりが漏れていた。
誰かが住み着いているのだろうかと、驚いたような覚えがある。
鍵は掛かってなさそうなので、とりあえず中に入る事にした。
私がまず目指したのは、工房。
アトリエそのものが工房ともいえるのだが。
それとは別に、人形制作用の部屋があったのだ。
工房は、昔とほとんど変わっていなかった。
一ミリも物が動いていない訳ではないが、荒らされてもいない。
まるで、誰かが守っていたかのようだった。
鍵を掛けておいた棚なども、そのままだった。
私が作った、私にしか開けられないものだから。
当然といえば、当然なのかもしれない。
どことなく懐かしくなり、物色をしていると。
微かな、物音が聞こえた。
僅かな明かりの中、音のした方を見ると。
そこは、彼女に与えた部屋だった。
記憶を頼りにランプを探し、修理をする。
点けた途端、部屋の中が明るくなった。
視界の隅に、紅が見えた。
私は、見えた色に懐かしさを感じた。
あの色は、私が人形に与えた色。
「誰か、そこにいるのですか?」
紅が見えた方へと、声を掛けてみた。
誰も答えないと思っていた。誰もいないと思っていた。
だけど、先ほどよりも、少し大きな物音がした。
私は、音を辿って廊下を進んだ。
明かりが漏れている扉の前に辿りつく。
やはり、その部屋は、彼女のものだった。
「――ルナ?」
私は思わず、その名前を口にしていた。
私が一体だけ作った、自我を持つ人形。
疑いつつも、扉を開けて部屋へと入った。
そこには、窓から半分身を乗り出した、彼女がいた。
間違えるはずがない。あの、深紅の髪。紅い硝子球。
何故窓から逃げようとしているのかは、不思議だったが。
それよりも、もっと疑問に思う事があった。
何故、彼女が今もなお、ここにいるのか。
まさか、私がアトリエを出た時から、いたのだろうか。
とりあえず、何故逃げるのかを聞いてみることにした。
逃がすつもりなど、まったくなかったが。
「貴女は、何をしようとしていたのですか?」
「あなたも、人形を集めに来たのでしょう」
泥棒行為をしている、低俗な輩がいるらしい。
私は、危害を加えるつもりなどなかったのだが。
次に名前を聞いてみたのだが。
怪しげな顔をされてしまった。
……どうやら、私だと気づいていないらしい。
そこで、棚の中の設計図の話を持ち出した。
間違ったことは、言っていないのだから、いいだろう。
「貴女を作った人は?」
「何処かへ行ってしまいました」
私は戦争が始まる寸前、アトリエを出た。
モノトーンで始まるのは、予想がついていたからだ。
その時に、彼女は連れて行かなかった。
自我があるから、何処かへ行くだろうと思っていた。
何処かへ行ったのは、私の方だったようだ。
「その人の名前は?」
返事が、返ってこなかった。
そういえば、彼女に私の名前は教えていなかった。
ここでまた出会うとは、思ってもいなかった。ならば。
私の所へ来ないかと、誘ってみた。
……変な声で聞き返されてしまった。
私についてくる理由もないが、ここにいる理由もないはず。
自我を与えてあれど、理由がなければ動けないのだろうか。
だとしたら――彼女は何も変わっていない事になる。
私は、大きく変わってしまったというのに。
戦争も終わり、時は流れ、様々な物を目にしてきた。
彼女は、変わらなかったというのか。
それならば、理由を与えてみよう。
「私に、仕えませんか?」
理由は、新しく与えた。後は、彼女次第という事になる。
しばらく考えていたようだが、結果的には、ついてくるらしい。
何をするのかと思ったら、いきなり跪かれた。
「マスター、お望みのままに」
私は思わず失笑してしまった。
本当に、頭の硬い機械人形だな。
ならば、私が見届けよう。どのように変わっていくのか。
感情は、心は芽生えるのか。実験だ。
……彼女は、あの約束を、覚えているのだろうか。
約束が破られた時が、実験の終わりとしよう。
立っている彼女を私は引きずっていく。
やはり、機械人形は重い物だ。
「名前を教えてくださらないかと……」
そんな事を、彼女が聞いてきた気がする。
あの時は、教えるのを忘れてしまったから。
今度はちゃんと名乗る事にしよう。
私の名前は――
「アルフォンス=オーギュストといいます」
それから彼女は、私の事務所に移り住んだ。
彼女は、実に忠実に働いてくれた。
だが、それは私にとっては、少し退屈な事で。
少しだけ、もどかしさを感じていた。
文句も言わずに仕事を手伝ってくれるのを見ると。
自我を与えた意味があるのか、考え込む事もあった。
ぼろぼろの布を纏っていたので、服も調達した。
何種類かの色を買ってきたのだが。
どうも、地味な色の服ばかり着ていた。
黒いものをよく着ていた。
明るい色が、どうも嫌いなようだった。
これで、好みがあるという事が、判明した。
あの時は、随分と楽しませてもらった。
普段は朝早い彼女が、珍しく降りてこないので、見に行った時。
随分と、深い眠りについていた。夢でも、見ていそうなくらいに。
だから、部屋のカーテンを閉めてみた。
ちょっとした、悪戯ともいえる。
案の定、彼女が起きてきた時間帯は。
空が夕焼けに赤く染まる頃だった。
しかも、何故か黄色のワンピースを着ていた。
本当は、雨どころか、槍が降ってくるのではと驚いた。
どうやら彼女は、私への当て付けにやっていたようだが。
その日ぐらいに、珍しい依頼もあった。
少年の、機械人形からの依頼だったはずだ。
主を殺されたのは不憫だとは思ったが。
殺しを依頼に来るのは、すごいと思った。完全に独立している。
あの少年は、最後に何を考えたのだろうか。
彼女は、彼が壊されたと知って、何を思ったのだろうか。
悲しんだり、哀れんだりしたのだろうか。
また、私が少年を壊した事を知ったら、どんな顔をしたのだろう。
見てみたかったかもしれない。
その日は、さらに驚く出来事があった。
雇って欲しいと、機械人形が来るなんて。
あれは精巧によく出来た人形だった。
ころころとよく表情が動いていて、感情豊かだった。
その機械人形を作ったのが、知り合いだったのも驚いたが。
腕がいい所が、憎らしい。
人形にスパイをさせるように頼んだのは私だ。
ルイは、面白そうだと言い、協力してくれた。
代わりに、仕事をしろと五月蝿く言われたが。
しかし、私は彼女を壊せといったのだが。
いつのまにか、私を殺せに摩り替わっていた。
どうあっても、ルイは私の邪魔をする気らしい。
嫌な気分になりそうな、依頼もあった。
奥さんと娘さんを殺された、哀れな男。
あの男は、あの後どうしたのだろうか。
拠り所にしていたであろう、遺品を受け取ったのだ。
恐らくは、腑抜けているのだろう。
守る事もできなかった、非力な男だった。
依頼人も気に食わなかったが、対象も汚らわしかった。
この手で止めをさせた事で、不満は解消されたが。
短剣は、思っていたよりも使い勝手が良かった。
モノトーンへ行った時。彼女は何を考えていたのだろうか。
再開した時よりは、何もかもが、変わり始めていた。
心は分からないが、感情も芽生えていたようだ。
それを見て、私は不思議な気分になったのを、覚えている。
でも、さほど、悪くはなかったはずだ。
無機質な人形と暮らしているよりは、その方が楽しい。
もしも私が、彼女を連れ出していなかったら。
彼女は、どうなっていたのだろうか。
アトリエに、ずっと一人で、居続けたのだろうか。
あるいは、私が会いにいっていたのかもしれない。
そして、あの満月の夜に。
私は、二体の機械人形を壊した。
ルイが作った人形と、私が作った人形を。
あの日は、記念すべき日でもあった。
彼女たちが、幸せというものについて、話し合っていたから。
扉を開けようとして聞こえた内容に、固まった。
人形が、幸福という感情について語り合っている。
これは、凄い事だ。
彼女たちが、変わりつつあるサインでもあった。
だから、私は最後の仕上げをしたのだ。
殺すように、差し向けて。
邪魔者を始末するのが、私達のルール。
そして、彼女は少女を壊すことが出来なかった。
この結果が意味するものは。
彼女には、確かに感情が芽生えていたという事。
壊したくないという思いがあるから、命令にも逆らった。
……同時に、彼女が私を裏切ったという事にもなるが。
だから、私は彼女を破壊した。
それが、遠い昔の約束だったから。
違えられた時が、実験の終わり。
自分のものを、自分で壊した。それだけ。
それで、終わるはずだったのだ。
虚空を見つめていた目を閉じて、私は考える。
私にとって、彼女はただの人形。
例え、感情が、自我があるのだとしても。
それなのに、何故、こんな状態になっているのか?
仕事にも身が入らず、過去に拘る日々。
何故そんな事を考える? 全ては終った事なのに。
何も感じなかった。確かに、あの時は。
だから、この手で壊したのに。
「全然……終わっていないじゃないですか」
ぽつりと呟いた言葉は、虚しく部屋に吸い込まれた。
この虚無感は、一体何なのだろう。
打ち消そうとして、他の事をしても。
何か、靄のようなものが、残るばかりで。
それは、消えるばかりか、増えていくだけで。
私が彼女といたのは、実験的なもの。
人形に、心は宿るのか。それが、確かめたかった。
彼女がいなくなって、残ったものは。
届かない、消える事のない感情。
私は人形ではなく、れっきとした人間だ。
だから、この感情に心当たりはある。
だが、認めたくはないのだろう。人故に。
醜い、プライド。人間特有の、エゴ。
何故彼女は壊れる寸前、ありがとうと行ったのか。
どうしてなのか、いくら考えても答えは出なかった
きっと、彼女が持っていってしまったのだろう。
二度と、触れられぬ場所へと。
まさか、私がこんなにも、人形に囚われるとは。
いつからだったのだろうか。
彼女といるのが楽しく、自然だと思うようになったのは。
変わったのは、彼女だけでなく、私もだったのだ。
最後まで彼女は、私に気づいてくれはしなかったけれど。
戦渦から逃げるように、街を転々と移動して。
その中で見たのは、無数に作られ、壊されていった機械人形達。
そして、人形を嫌悪する人間だった。
私達が自分の都合で、勝手に作り出したというのに。
そんな状況で、昔のままではいられなかった。
それは、私の弱さなのかもしれない。
彼女の中にいたのは、私ではなく、僕だった。
それは何故か、苦しい事で。どちらも、同一人物だというのに。
苦しすぎて、眩暈がしそうになるほどに。
もう認めざるをえないのかもしれない。
私は、彼女を壊したくはなかったのだ。
それが、本当の気持ちなのだろう。
嘘偽りのない、隠し事のない、ありのままの心。
いくら受け入れようとも、この思いを伝える事は、もう出来ない。
彼女はもう、何処にもいないのだから。
私の中にいるなどというのは、所詮は慰みにしかならない。
紅い歯車を使っても、彼女は作る事が出来ない。
違う、ただの人形が生まれるだけ。
ルナ=クローディアという人形は、一人だけだった。
何故私は、そんな単純な事にも、気づけなかったのだろう。
ただの人形ならば、いくらでも代えはきく。
彼女は違ったのに。壊してしまったのは私。
叶うのならば、あの時に戻りたい。
私が今考えるのは、そればかり。
そして、何事もなかったかのように暮らすのだ。
夜の仕事をして、彼女と他愛のない話をして。
これは、永久に叶う事のない願い。
消える事のない後悔が、証。
それでも望んでしまうのは。
私の愚かさだろう。
「もう、終わりにしてしまいましょうか」
彼女が居ない日々は、ひどく色を失って。
生きる意味など、見出す事が出来なかった。
それならば、自ら眠りについてしまおう。
夢のなかならば――彼女に会えるかもしれない。
また私は、逃げ出すのだ。
蜘蛛の糸を掴むかのような思い。
私はテーブルの引き出しから、愛用の銃を取り出す。
彼女を、壊した銃。
私は昔幸せになって欲しいと、願ったはずなのに。
その幸せを奪ったのは、私じゃないか。
愚かで、馬鹿で、どうしようもない私。
一番大事な時に、大切なものに気づけなかった。
大切な、愛しいものは、すぐ傍にあったのに。
自ら、遠ざけてしまった。
懺悔は届かない。後悔した時には、もう遅い。
痛みは、苦しみは、後からくるもの。
彼女は……最後に、人間になれたのだろうか。
私は一人死のう。
届くことのない願いを抱いたまま。
こめかみに銃を押し付ける。硬い、冷たい無機質の感触。
どうか、次に、この世界に彼女は生まれてきたならば。
人間として、幸せに生きることができるように。
私は祈っていよう。
何も見えない、暗く深い闇の中で。
それが私に出来る、贖罪。
銃の引き金に手を掛ける。
その時。
開け放した窓から、僅かに風が吹き込んできた。
頬に、ひやりとしたものを感じた。
思わず引き金から手を離して、頬に触れた。
「今更……。もう、遅いんですよ」
何故、あの時に涙はでなかったのだろう。
今となっては、意味がないというのに。
今度こそ、しっかりと引き金に手を掛ける。
一気に、指に力を込める。
頭に鈍い衝撃が響いて。何もかもがゆっくりとした動きになって。
床に倒れながら見えたものは。
彼女と同じ――紅。
その男が事務所に入ろうとしたとき、一発の銃声が聞こえた。
男は扉を開けて中に入り、階段を上る。
いくつかある扉の前を進み、迷う事なく一つの扉を選んだ。
扉を開けて、中に入ると。
そこには、一人の男の死体があった。
無言で死体を眺めた後、男はあるものに気づいた。
テーブルの上に置かれている、装飾が施されている箱。
蓋を開くと、中には紅い歯車が入っていた。
男は歯車を取り出すと、自分の懐にしまった。
そして男の死体に近づくと、握られていた銃を取った。
それもまた取り出した布に包み、懐へとしまった。
金髪の男は、自らの眼帯を、おもむろに外した。
そして、死体へと放り投げた。
小さく何かを呟くと、部屋を後にした。
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