紅桜
夕日が差し込む教室。ぽかぽかと暖かい放課後。
俺は窓から、ひらひらと風に運ばれていく桜の花びらを眺めていた。
「なあ」
「ん……なあに?」
俺の向かいで必死に勉強しているのは、幼馴染の咲良。
「サクラってさ、綺麗だよな」
「祐治、どうしたの? いきなり褒めるなんて……」
教科書を見ていた顔を上げて、俺を見ながらきょとんとしている。
見た目はかわいいのだが、少々頭の具合が悪い。
あまり成績の良くない俺よりもひどいのだ。
いわゆる、赤点レベルということ。
「馬鹿。俺が言ったのは、花の桜のことだよ」
イントネーションでわからないのだろうか……? 俺ははっきりと発音したはずなのだが。
「なんだ、そっちの桜か」
「そっちもあっちもあるか。ほら、早く勉強しろよ」
「うわー冷たいね」
ぶつくさ言いながらも勉強を再開する彼女。
大体、こんなに暖かい春の日は、早く家に帰って昼寝するのが一番なんだ。
それなのに何で俺は彼女と勉強なんかしてるんだか。
毎度のことながら、俺は押しに弱いのだと思い知らされる。
小、中、高校と同じだったせいなのか、幼馴染だからなのか。
新学期始めの試験、中間試験、学期末試験……そのたびに俺は彼女に呼び出されている。
このままじゃ進級できない、とか……答案用紙が赤すぎる、とか。
赤いも何も、ほとんど合ってないのだから、おのずとバツが増えるわけで。
それに比例するかのように、赤色が増えていくというわけ。
この間の学期末試験の答案には――青色まで登場してしまった。
担任のお小言というか、注意というか脅し?
彼女の答案には、そのうち紫色でも登場するんじゃないだろうか。
……かなり不安だ。そして赤、青、紫の答案用紙は色々な意味で怖い。
まあ、何とか今まで無事に切り抜け、進級もできたが……まだ、進級が二回もあるとは。
正確には、進級と卒業だが。……俺は家庭教師じゃないんだからさ。
彼女の成績が上がって、俺の成績が下がりそうだ。
「あーっ、やっと終わったぁ」
大きく伸びをしながら、教科書を閉じている。
本当に終わったんだろうか?
怪しく思いながらも、ノートを見てみると。
「……おい。ちょっと待て? なんだ……この所々開いてる隙間は。書きかけみたいなのも」
「え? ああ。そこさ、解らないから」
「教科書見ながらでも書けといったはずなんだが」
「見てもわからないから」
「解らないんじゃなくて、それは解ろうとしてないだろう……お前」
ふうっと溜息をついて、ノートを見る。
問題の下には、妙なスペースが開いていて。
たまにスペースには英語が書いてある。
「おい、なんで数学で英語なんだ?」
「何か同じような感じじゃない? 記号とローマ字」
窓の外を眺めながら、答える彼女。
俺は――頭が痛くなった。
ノートに赤ペンで解答を書き込んでから、彼女の隣へ行き、桜を眺める。
四階の方がよく見えたような気がする。
夕焼けを受けて、緋色へと変わる桜色。
ほんの僅かだけれど風が吹いていて、ゆったりと落ちていく薄い花びら。
近寄ると、きっとふんわりと香るのだろう。
決してくどくはない、けれどもすぐには消えてしまわない桜の香り。
綺麗な薄桃色をした桜、白色が強い桜、赤色が強い桜に、それらが調和した桜。
俺は……桜というものが大好きだ。
「それでさ、桜がどうしたの?」
眺めながらうっとりしていると、いきなりそんな事を彼女が聞いてきた。
「どうしたって、何がだ?」
「やだ、忘れたの? さっき言ってたじゃない。桜は綺麗だよなって」
……ああ。何かさっきそんなこと言ったような気もするような――しないような?
まさか咲良と間違えられるとは考えもしなかったな……じゃなくて。
「よくさ、桜の下には死体が埋まってるっていうだろ?」
「あー……なんか聞いたことあるかも」
昔、どこかで誰かに聞いた話。
桜の木の下には、人間の死体が埋まってるという。だから、桜は綺麗なんだと。
人の血を吸って、色鮮やかな花びらを咲かせているのだと。
そんな、たわいのない話。
けれど、どこか信じられる話。
「あれってさ、本当なんじゃないかと思ってるんだよな、俺」
「祐治がそんな事信じるなんてねー何で?」
「いや、だって桜綺麗だし」
「まあ、確かに桜はとっても綺麗だし、大好きだけどさ……なんか違くない?」
首を傾げられてしまった。
今のは確かに言い方を間違えたかもしれない。
「うちの学校の桜ってさ、毎年満開状態だろう。栄養がいいのかなって」
「そういえば、咲かない年ってないらしいね」
この高校の桜が見たいから入学する人がいるとか、いないとか。
「で、栄養だから……人間が埋まってるって?」
「そういうことだよ。うちの桜の木の下には、美人が埋まってるんだよ、たぶんな」
「じゃあ、枯れてる桜には何が埋まってるの?」
「咲良みたいなのが埋まってる」
「…………」
頼むから、無言で俺を見ないでくれ……怖いからさ。
けっこう美人なだけに、睨まれると迫力あるんだから。
「でっ、でもさ、不思議なんだよな」
「……何が?」
まだちょっと怒ってるかもしれない。
「人間が埋まってるならさ、何で桜色なんだろうな」
「はい?」
「だから、どうして赤い花びらにならないのかって」
人の血液は、赤い。間違っても、緑とかピンク色ではない。
なのに、桜は多少の差はあるものの、皆桃色だ。
「えー? ん……量が足りないんじゃないの?」
「一人じゃ足りないのか……。や、頑張ればどうにか……」
「何人埋めるつもりよ。って、いつの間にか、埋まってるの前提で話してるわね」
「前提じゃなくて、埋まってるぞ」
「何で言い切れるのよ」
「埋めたことがあるから」
「――えっ?」
しばらく、教室の中に沈黙が流れる。
いつしか、夕日も傾いて……もうじき夜が来ようとしている。
「理科の」
「?」
「理科の実験とかで、食紅とか色々使うだろ? あれ埋めてみたんだよ」
「――っ。なんだ。そっちか。驚かせないでよ。で、結果はどうだったの?」
「……別に変わらなかった」
「ぷっ。そりゃそうでしょう。どれくらい入れたのよ?」
「冬から、春まで毎日埋めにいった」
「食紅を……毎日?」
「そう、まいにち」
小さいビンだったり、プラスチックの入れ物だったり。
バイト代からお金を出して。
実験をしてるんです、と言って。
毎月、食紅を店に買いに行った。
正確には、毎日一個を。昼間のうちに買いに行って、夜になったら、桜の木の下に埋める。
埋めるというよりも、流すという表現が正しいかもしれない。
粉末を水に溶いて、液体はそのまま。
「なんで、そこまでしたの?」
「赤い……赤い桜が見たかったから」
「綺麗な、赤い桜を?」
彼女が、いつの間にか俺から少し離れている。
なんで彼女は離れたんだろう。
「そう。薔薇だって、チューリップだって、赤色の花があるのに、なんで桜は赤くない?」
「タンポポとか……そういうのは、赤い種類はないよ?」
「それは、やったことある」
「……どうだった?」
「植木鉢でやったら、赤い花が咲いたよ。とっても鮮やかな、朱色よりも濃い赤だった」
花びらをちぎってみても、断面は赤くて。茎も切ってみたけど、やっぱり赤。
根も同じだった。
真っ赤な、異端のタンポポ。とても、綺麗だったな。
でも、所詮紛い物の赤。偽者の赤なんだよな。
食紅とかは、人工的に作られたものなんだから。
俺はまだ、人を埋めた事はないんだ。
人の、血液を吸って咲く桜は、なによりも美しいだろうなと思うよ。
血には、血小板、白血球、赤血球が含まれていて、生きているんだから。
俺は、ぼうっと考える。恍惚と、時に朦朧としながら。
彼女は、じっと黙って窓の外の、桃色の桜を眺めている。
「そんなに言うならさ、また桜に埋めてみれば?」
「……桜に?」
「そうよ。そんなに気になるのなら、またやればいいじゃない」
「食紅?」
「もう、青いやつとかもやっちゃえば?このさいまとめて」
それにさ……と彼女が言う。
「私も、赤い桜……見てみたいな」
俺の方を見ながら、やわらかく微笑む彼女。
少し色素の薄い、淡い茶色をしたサラサラの髪。
澄んだ茶色をした大きな、くりっとした瞳。
すっと通った鼻梁に、シャープは顔の形。
桜も好きだけど――咲良も俺は好きだ。
だから、勉強とかにも付き合ってやってるんだろう。
でも……咲良。
そんな顔で、表情で、俺に笑いかけないでくれないか。
俺は、どうしても見たくなってしまうじゃないか。
「祐治ったらさ、さっきから瞳がギラギラしてるんだから。やらないと、落ちつかなそう」
「お前は、手伝ってくれるのか」
ほんとうに、てつだってくれるのか、さくら。
「いいわよ? お金は出さないけどね? もちろん、祐治も手伝ってよね」
……それならば。
「食紅は用意しておくから……明日の深夜零時に学校でやらないか」
「深夜? うーん、別にいいけどさ」
「忍びこめるよな?」
「たぶん大丈夫じゃない? 先生とかけっこうサボってるからさ。どこに行けばいいの?」
「学校の裏にある、一番大きな桜の木の所に」
「わかった。じゃあ、今日はもう帰るね?」
「ああ。また明日」
彼女は教科書をすばやくしまうと、廊下を走っていった。
バタバタ音が教室にまで響いてくる。
俺も……帰らないと、な。
これで、やっと試す事が出来る。
俺は、にっこりと微笑む。
深夜の学校には、誰もいない。
この高校はどうなっているのか、深夜になると、宿直の先生までいない時がある。
忍び込んだり、何かをするのには好都合。
俺は通学用のカバンを肩に掛けながら桜の木の下へと急ぐ。
一番大きな桜の木なのに、裏の方にあるせいか、あまり人がいない。
今年は、何故か少しだけ花の数が少ない……桜の木。
でも、もう大丈夫。来年は、きっと満開だからな。
それに、今日は満月だ。
空を見上げると、灰蒼い月光が降り注いでいる。
今日は、いい日だな。
少々重いカバンにやきもきしながらも、桜の木へと辿り着いた。
そこには、もうすでに彼女がいた。
「咲良」
「あ、祐治やっと来た! 遅いよっ」
彼女が手を振りながら、走りよってきた。
何故だか彼女の左手首には包帯が巻いてあった。
「悪かったってば。カバンが重かったんだよ」
「重くなるほど何入れてるのよ」
「ん? これこれ。必需品」
カバンを開くと、月光に反射して、それがきらりと鈍く光った。
「……なに、それ」
俺はカバンから折りたたみ式のそれを取りだす。
「何って……スコップ」
「なんでそんな大きいの?しかも新品」
「大量に埋めるから。入れ物ごと。家になかったから、買ってきた」
「……」
俺は訝しげな彼女を横目に、深い穴を桜の木の下に掘り始めた。
ザクリッざくりと土を掘る音が、静かな月夜に響く。
それをじっと見ている彼女。
俺はひたすら掘る。深い、落とし穴みたいな穴を。
土の匂いに、自分の汗の匂いに、植物の匂い。
それが交じり合って鼻腔を刺激する。
……鼻がむずむずしてくるな。
めげずに掘り続けていると、ずいぶん深くなった事に気づいた。
そろそろ穴から出ないと、出られなくなる。
土の表面はしっとりと湿っていて、力を入れると、指は突き刺さる。
だが、それ以上に強い力を込めると、崩れてしまう。
「おい、お前届くか?」
「だいじょうぶ……ぎりぎりかも」
一所懸命手を伸ばしている彼女の手を掴む。
「そのまま引っ張れるか」
「ちょっと待って……」
少しすると、身体が引っ張られる感覚。
俺はそれを利用して、壁に足を掛ける。崩れてしまう前に、上へと。
泥まみれになりながらも、なんとか出口付近まで這い上がれた。
「まったく、何で梯子とか持ってこなかったのよ……」
「そこまで考えてなかったんだから、仕方ないだろ」
「祐治……重い」
「一応俺も男だからな」
「重いから……疲れちゃった」
ふわっと身体が下に引っ張られる感覚。
「――っ?」
感覚は、一瞬で。気がつくと、俺は穴の底へと落ちてしまっていた。
彼女が、手を離したのか。
「咲良、危ないから急に手を離すなよっ。疲れ倍増するだけなんだから」
「そう? あと一仕事だから、そんなに疲れないよ?」
――あと、一仕事? いったい何が?
訳がわからず穴の底で呆然としている俺に、上から何かが降ってきた。
ぱらぱらと降ってくるこれは……土。
「おい、咲良! お前一体何考えて――」
「何って、祐治と同じこと考えているだけ」
俺と同じこと? それはつまり。
「私の事をさ、埋めようとしてたでしょ、祐治。
桜の木の下に埋めて、赤い桜が見たいって思ったんでしょ?」
「それはっ……食紅で」
「栄養は、血液。入れ物は私――違う?」
「俺は……お前のことが好きなんだ。だから、そんなことするはずがっ!」
「私だって、祐治のこと、ダイスキだよ?」
「なっ」
「ダイスキだから、祐治の赤い桜が見たいなあって思ったの。
祐治があんまり言うから、見たくなったの」
「そんなのは……間違ってる」
彼女の顔は、影になってしまって、ここからはよく見えない。
今、彼女はどんな表情をしているのだろうか。
声は楽しげだけれど……顔は?
恍惚としているか、悲しいのか。
俺には――わからない。
「私が間違ってるなら、祐治もそうでしょ。それに間違ってるとか正しいとかじゃないよ」
いつの間にか、土が首の所まで積もってきていた。
「私は、あなたの桜がみたいの」
赤い――綺麗な桜が見たい。それは俺が思っていたこと。
同じことを彼女が望んでいるというのならば……俺に何ができる?
これは俺自身がまいた種なのだろう。
ならば、これは自業自得?
それとも、彼女の考えに気づけなかった愚かさか。
「祐治の桜もいいけど、私の――咲良の桜っていうのもいいよね。だから、考えたんだ」
彼女の姿がほんの数秒見えなくなってから、何か音がした。
刹那、何か土とは別の……液体が降り注いできた。
僅かに鼻先をくすぐるこの鉄のような香りは――
「ついさっき、取立てだよ。まだ固まってない」
笑い声が聞こえる。
「私の血も埋めれば、祐治と一緒だよね」
「……これ、お前の血なのか」
「そう。二人の血で赤い桜を咲かせるの。とってもいいよね」
ああ、もうすぐ口が埋まってしまう。
しゃべれなくなってしまう前に……伝えておこう。
「咲良」
「なあに? 何か言いたいことあるの?」
「愛してたよ」
すぐに口が埋まってしまい、耳も埋まった。
真っ暗闇に包まれていたけれども、俺には彼女が笑っているような気がした。
「私も、愛してるよ……祐治?」
俺の、意識が……薄れていく。
閉ざした瞼に映る、残像は……月光に照らされる――微笑んだ咲良。
また、今年も春が来た。
今回の進級試験……けっこうギリギリだったよ。
私だけじゃやっぱり駄目みたい。
また誰かに勉強教えてもらわないとなあ。
私の事、見ていてね。
祐治がいなくても、平気だから。
後悔は、していないから。
忍び込んだ夜の学校は、とても静かで。
夜空には、あの日みたいに綺麗な満月が顔を覗かせていて。
誰がいなくなって、何かが消えても、変わらずに季節は巡り続けて。
過去も、今も、これから先の――未来も。
「ねえ……祐治? 綺麗だよね、桜」
あの人を埋めた桜の木は……今年は狂い咲いた。
昼間は桃色。夜は……紅。
他のどの桜よりも綺麗な花を咲かせて。
色鮮やかな花びらを落として。
ざわり、と春風が桜を揺らす。
真っ赤な……とっても綺麗な赤い桜。
赤い、紅の花びらが風に吹かれて舞い落ちる。
ときおり、舞いあがって、満月へと花びらは踊る。
辺り一面に漂う、なんともいえない甘い香り。
祐治と、私の桜の香り。
私がここを卒業しても、枯れずに……咲き続けてほしいな。
私たちの桜。
「ねえ……とっても綺麗な、赤い桜。咲いたよ? ちゃんと見てるよね……」
ちゃんと赤い桜を咲かせてくれて、ありがとうね祐治。
でも、最後にあなたは言った。
『愛してたよ』
愛している……ではなかったね。
興ざめ、したのかな。
今となってはもう解らないけれど。
私は、祐治が今も私を……咲良を好きであることを信じてるから。
あなたが咲かせてくれた、この満開の紅桜の下で。
ひときわ強い風が吹いて、花びらが舞い踊る。
眼の前に広がる……赤い花吹雪。
私の願いに反するかのように……花びらは散り続ける。
鮮血のように、鮮やかなまま。
まるで散り急ぐかのように。
花吹雪が止んで、静寂が訪れる。
「また来年も来るから……咲かせてね。綺麗な桜」
ごつごつとした樹皮に手を滑らせる。
不意に、一枚の桜の花びらが舞い降りてきた。
私の目の前に、狙い済ましたかのように。
ふわふわと舞うそれを、手のひらに収める。
「……やだ。お小言のつもり?」
思わず、泣きそうになってしまった。
おそらく、この手のひらの中の一枚だけであろう花びら。
透き通るかのように綺麗な……蒼い花びら。
ねえ、桜の木の下にはね……人間の死体が埋まってるんだよ?
でもね、それだけじゃないんだよ。
悲しみも、喜びも。愛情も、憎しみも。
色々なものが埋まっているんだよ。
だから、桜は綺麗なんだよ。
だから、桜に心奪われるんだよ。
何かを奪って咲いているから――綺麗に咲き誇るんだよ。
誰かに見てほしいから、一生懸命に花びらを散らすんだよ。
満ちゆくものよりも、消えゆくものに関心が行くでしょう?
だから――忘れないでいてね。
サクラが咲いていたということを。
赤い……綺麗な紅のサクラがいたということを。
忘れないでね。
散りゆくサクラに、想いを乗せるから――。