蝉の声に代わって鈴虫の声が響く季節になった。
その日、少女はふと夜中に目を覚ましてベッドから身体を起こした。
何か嫌な予感がしたとか、物音がしたとかそういうわけではなくて。
「のどが、かわいたわね」
もそもそとベッドから降りて居間へと向かう。途中青年の部屋を覗いてみたが、よく眠っていた。
居間の中は、夜だというのにほんのりと明るかった。
台所へ行き、コップに水を注いでひと口飲んだ。水道の水は冷たくて、頭に響いた。
コップを置いて、部屋の窓を見ると、淡い月光が差し込んでいた。
誘われるように少女は窓へと近づき、空を仰ぎ見ると綺麗な満月が闇に浮かんでいた。
月には時折雲がかかって、おぼろに見える。
居間が明るいのは、月明かりのおかげだったのね。
浮きでるかのように、ぽっかりと浮かぶ丸い月は、見ているととても落ち着いた。
水のせいで頭も冴えてしまって、もう一度すぐ眠ることはできなさそうだった。
「少しくらいなら……眺めていても、いいわよね」
月をじいっと見ていると、うっすらとだけれどでこぼこのような模様が見えて。
……そういえば昔、月にうさぎがいるといかいう話を聞いたことがあるような……
こうして見える模様が、たまたまうさぎに見えたのだろうか?
本当にいるとは思えないけれど、そんな見間違いもあってもいいかもしれないわね。
――なんでわたしったら、こんなこと考えているのかしら。
前だったら、そんなこと疑いもしなかったのに。
こういうの……ほだされたって言うのかしら? でもそれじゃあ彼に失礼よね。
月を見ているせいか、色々なことを思い出す。
まだ家族一緒だったころのこと、置いていかれたときのこと。今までのこと。
わたしのお母さんは外国人で、わたしのお父さんは日本人だった。
ふたりがどういういきさつで出会ったのかわたしは知らない。
でもわたしが知る限り、ふたりの仲はとてもよかった。
だから、家族に終わりがくるなんてわたしは考えてもいなかったの。
お母さんは綺麗で優しかったし、お父さんもとても真面目な人だった。
真面目で、一途だったから、耐えられなかったのかもしれないのだけれど。
お父さんにはお母さんしかいなかったけど、お母さんにはそうじゃなかった。
冬の寒い朝の日だった。
起きてあいさつをしようとしたら、居間の中でお父さんが立ち尽くしていた。
まるで棒みたいに、身動きひとつしなくて。その向かいにはお母さんが立っていて。
普通じゃない雰囲気で、わたしはふたりに声を掛けることもできなかったのを覚えている。
少しして、そのままお母さんは家を出て行ってしまった。
後からわかったのは、お母さんが浮気をしていたということ。
そのまま、浮気相手のところへいってしまったらしい。
お父さんは怒らずに、泣いて引きとめようとしていたけれどダメだったということ。
お母さんが家をでていった次の日。
わたしが居間へいくと、お父さんがぶら下がっていた。
首吊り自殺だった。あの苦悶の表情は、わたしはきっと忘れることができないと思う。
こうして、わたしは独りぼっちになった。
学校へはしばらくは通っていたけれど、途中から行かなくなった。
外見のせいで、わたしはうとまれていたから。別に楽しくもない場所に行きたくもなかったから。
お父さんの親戚中たらいまわしにされたけれど、どこもわたしのことを好んでいる所はなくて。
何回目かのときに、わたしはその家を出た。
きっと、わたしがいなくても、その家の人たちはなんとも思わなかっただろう。
むしろやっかいばらいができて、せいせいしていたのかもしれない。
それからは、浮浪児のような生活をして今まで生きてきた。
本当に、今こうやって屋根のあるところで生活できているのが、不思議で仕方がないわ。
青年が少女に手を差し伸べなければ、きっと寒空の下の暮らしは続いていたのだろう。
最初は、なんて変わった人なのかしらと思っていたのに。今は感謝しているなんて。
こんな風に思っているわたしも、きっと変わったに違いないわね。
ずうっとあのままだと思っていて、変わりたくはないと思っていたはずなのに。
変わってしまうと、わたしがわたしではなくなってしまうような気がしていたから。
過去なんて振り返るのは、いやだったのに。だって、寂しくなってしまうもの。
でも、いざとなるとそんなに悪くはないわ。
……凍えているよりはとってもいいし、楽しいもの。彼が喋れなくたって問題ない。
今はこの生活がずっと続けばいいと思う。本当に続くはずはないとわかっているけれど。
でも、来ない日を考えて沈むよりは、今日のこの日を楽しむ方がいいんじゃないかと思うようになった。
わたしの中にいままであった、冷たくて硬い氷。それはいつのまにか溶けてしまっていたらしい。
きっと、あたたかい誰かにあてられてしまったのだろう。綺麗な月のせいもあるかもしれない。
本当に一人で見るのがもったいないくらいな月だと少女は思った。
どうしようかしら……起こそうかしら? でも眠ってるわよね、当然のことながら。
それなら、明日みればいいわよね。月はいつでも見れるのだし。
明日は――晴れるといいな。
そのまま少女はうとうとしながらも、月を眺めていた。
差し込む月光はまるで少女を包み込むかのようだった。
青年が居間で眠り込んでいる少女を見つけたのは、少女が眠ってから少し後のこと。
なんとなく目が覚めた彼は、少女の様子を見てみたところ部屋にいなかったので。
どこで寝ているのかと居間に来て見たのだった。
窓の近くで座り込んで眠っている少女を見つけて、青年は一安心した。
一安心してから、自分が着ていた上着を少女にかけてあげたのだった。
こんなところで寝て、風邪をひいてはいけないからね。
部屋まで運ぼうかとも思ったが、起こしてしまってはいけないと考えた結果だった。
明日少女が起きたら、ちゃんと寝るときは部屋に戻るように注意しようと青年は思った。
すうすうと眠り続ける少女を見るその顔は、柔らかく優しい笑みで彩られていた。
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