闇に紛れて痛みと愛を

「僕は父親に犯されたんだ」
 歌うように、夜の暗闇の中で、彼はそういった。
 馬鹿馬鹿しいよね……でも。
「忘れられないんだ」
 そう彼は続けた。
 その彼の姿を私は忘れられない。明りをすべて消した暗い部屋。
 闇の中で浮かび上がる、白いその裸体も。

 愛しいような、痛いような。そんな夢で私は目を覚ました。
 彼の夢を見たのは、初めてかもしれない。
 こんなにも、鮮明に覚えているというのに。だからこそ、夢に見たのだけれど。
 ベッドの中でまどろみながら、私は数年前に付き合っていた彼の事を思い出す。
 今は別れてしまったけれど、それでもまだ、想いはどこかにあるだろう。
 でも。
 今思い返すと、私はどうして彼に惹かれたのだろう。
 確か彼と付き合い始めたころ、私は男に振られたばかりで、男性不信におちいっていたというのに。
それなのに、まるでナンパのように、街角で自分から声をかけるなんて。
 おびえた子供のような……それでいて鋭い蛇のような目をしていた彼。
「物好きだね」  それが、彼が私に初めて言った言葉。どう返事をしたかは、不思議と覚えていない。変な女だと思われたのは、確かだろうけど。
 その後どういうわけか話が進んで。何度か一緒に出かけたりして。
 気がつくと、体を重ねるまでの関係になっていた――――

 彼に妙な癖があることに気付いたのは、そのころだろうか。
 何故か、いつも微笑んでいるのだ。にっこりとした笑みではなくて、皮肉さを含んでいて、それでいて艶のある微笑。
 見る人がみればくらっときてしまうような。口元が、きゅっとつりあがっていた。
 二つ。彼は、暗闇が好きだった。彼の家、私の家、ホテル……食事を終えると、彼は部屋の明りをすべて消してしまう。
 その状態でテレビ番組をみることもあった。
 もちろん、体を重ねる時も暗闇の中でだった。ベッドサイドの明りすら、灯さない。私の体は闇のなかに埋もれてしまい、輪郭がぼけてよくわからなくなる。
 次第に闇に眼が慣れてくると、彼の体がぼんやりと浮かび上がってくる。
 色白で、男性なのにしなやかできゃしゃな体つきをしていて。化粧などをすれば、その辺の女性よりもよく似合っていただろう。
 私は、その光景が好きだった。美しいから、それだけの単純な理由。性別に関係なく、綺麗なものは綺麗なのだと思ったのをよく覚えている。
 それを彼に伝えたことはない。きっと嫌がるだろうから。
 何度めの夜だったか。暗闇の中、彼は私の上で話しはじめた。僕は父親に犯されたんだ――――と。ひどい、とも信じられないとか可哀そうだとは思わなかった。
 ただ、胸の中に突き刺すような痛みを感じただけで。私は何も答えなかったのだけれど、彼は話を続けた。
 中学生くらいのころに、そういう目にあったのだと。事が終わってから、彼は自分の父親に聞いたそうだ。
 どうしてこんな事をするのかと。すると、父親はいったそうだ。
『お前は綺麗だから、すぐに結婚してしまうだろう。だから、忘れてしまわないように』
 もともと血のつながりがあるのに。それだけでは彼の父親は満足できなかったのだ。貪欲にも、体の繋がりまでをも求めた。
 結婚がどうのなど、なんの関係もないだろうに。絶てぬ繋がりがある以上、忘れられなどしないというのに。愚かな男だったのだろう。
「意味がわからない。恋人じゃないんだよ? ふざけてる」 
 そう彼はいった。口の端をくいっと綺麗に吊りあげながら。でも、と彼は続けた。
「皮肉だね。アイツはもういないのに、体が覚えてるんだ」
 忘れられないんだ。
「あぁ、気持ち悪い」
 ね、そう思うでしょう? と彼は私に同意を求めた。私は――――
「わからない。でも痛いとは思うわ」
 そんな風に返事をしたんだと思う。あまりはっきりとは覚えてないけれど。痛い、いたい。
 体がなのか心がなのかはわからないけど。ただひたすらに痛いだろうな、と思っていたのは確か。さっきよりも強く口元を歪めて、彼は私から離れた。
 何度か、行為を途中でやめてしまうことがあった。別に気にしてもいないし、もどかしくもなかった。体に溜まった熱だけは、もてあましていたけれど。
 彼はいつも体温が低めだったから、わからない。私の熱が伝わっていたのかどうか。体は繋がっていても、肝心なものは繋がっていなかったのだろう。いつもそうだった。
 奥底では、人を……他人を拒絶しているのだろうに。それなのに、彼は何度も言うのだ。暗闇の中で。
「この闇の中で、僕を愛して?」
 吐き気を催しそうなほど、甘い声で。白い腕を絡めてくる様は、まるで生まれながらの娼婦。そうして、彼はまた別の話をする。
 父親のよく飲む酒に、睡眠薬を混ぜて殺したらしい。真実かどうか、そんなのわからない。ただ、彼がそういっていただけで。
 今はもう母親もなくなっているとのこと。だから知っているのは私と彼の、二人だけなのだと。
「二人だけの、秘密」
 悪戯っぽく口元に指を当てて。
 艶然と笑う彼。
 私はそんな彼の頬へと手を伸ばす――――
 生ぬるい温度になったベッドの中で考える。彼は今どうしているのだろう。
 私は、自分から手を差し伸べて、愛してあげたのに……想いか、秘密かはわからないけど。重さに耐えかねて逃げ出してしまった。
 あの秘密は、今もしっかりと胸の中深くに沈んでいる。
 幾度となく、他の男と付き合った。私は、彼から逃げたのに。
 他人と関係を結べば結ぶほどに、彼の影は強く濃く、いっそう鮮やかになっていくだけで。そうしている内に、気付くと私のほうが娼婦のようになっていた。
 相手の日に焼けた小麦色の肌に、灰白い色を幻視する。身体だけじゃない。耳で、目で、頭で……心で。
 私は彼の感触を覚えていて、忘れられない。自分で進んでした行為で、こんなにも。無理やりならば、どれほど強く深く刻みこまれるのだろう。
 生々しすぎる夢をみたせいだろうか。無性に彼に会いたくなった。彼のアパートの場所なら覚えている。
 私は越してから、彼に教えてはいないけれど。本当に逃げるようにして別れたのだ。
 会いに行きたい。また、繋がりたい。
 繋がるものなどないというのに、愚かな私はそう思った。
 自分で誘って、捨てたくせに――――気まぐれにこの手で拾い上げるの?
 それでも、体は衝動に素直に動いて。気付くと身支度をして、家の外へと出ていた。駅から電車に乗って、今も彼がいるだろう場所へ。
 車内で揺られながら思ったのは……私は、彼の闇に魅かれたのかもしれない、ということ。
 いつか、彼がいっていた。父親に凌辱されてから、自分の中には闇があるのだと。それはとぐろを巻いていて、巻きついて離れないと。
 私の中には、白い闇が絡みついて離れない。

 色あせることのない記憶をたどって、駅から歩く。彼が住んでいる所の売りは、駅から近い事だったような気がする。
 アパートの階段を上り、部屋の前へ。部屋番号は、四一八三。そんなに部屋の数はないのに、やたらと桁が大きい。変わっていると思う。
 ドアの横にあるインターホンを鳴らすが、反応はない。未練がましく持っていた合い鍵で、鍵をあける。きしんだ金属音が小さく響いた。
 中に入ると、暗い。真昼だというのに明りがまったくついていない。半開きのドアから差し込む光で、微かに見える程度だった。
 昔と、物の配置がほとんど変わっていない。ドアを閉めると、真っ暗になった。窓やカーテンには暗幕でも貼ってあるのか。光がない。
 そんな中を、記憶を、手探りを頼りにして歩く。途中トイレか何かのドアに、何度かぶつかってしまった。それでもゆっくりと探っていると、リビングとおぼしき場所についた。
 指の先に明かりだろうスイッチの感触がしたけれど、そのままにしておいた。ぐるりと見渡しても、誰かいるような様子はなく。
 気配なんてものわかるわけじゃないけれど。でも、どこかには居るような気がしていた。
 声を出して、名前を呼んでみようとしたときだった――――首に、ひんやりとした腕が絡みついて。
「また、僕を愛して?」
 闇の中で……と響いたのは、私の声か、彼の声なのか。声にだしたのか、頭の中でなのか。
 私ははっきりと声に出して、彼への答えを告げた。白く浮かびあがるその腕に、指を絡みつかせて。
『アイシテ アゲル』

   この暗闇と痛みの中で、愛してあげる――――