紅い糸



 誰かに作られたレールの上を歩くだけの人生。

 そんな人生は嫌いだ。

 ならば、自らの手でレールを紡いでいけばいい。

 そんな力なんてない。

 大勢の中に混ざるわけではなく、かといって個人がしっかりしているわけではない。
 桐生和樹は、そんな人間だった。
 そんな僕が、佐伯紫織と出会ったのは、高校卒業を間近に控えた三月だった。


 彼女の容姿は、人並みに綺麗だった。
 艶やかな黒髪のセミロング。後ろには、赤いスカーフで作ったリボンが結んであった。
 姿だけを見ると可愛らしいけれど、表情はどこか冷めていた。
 それだけだったら、何処にでもいる普通の女の子だ。
 僕も興味なんて抱かなかったと思う。
 彼女は、死にたがりだった。
 口でいうだけじゃなく、実際に実行しているタイプの死にたがりだった。
 手首には、いつも真新しい包帯が巻いてあった。
 それを見て僕は、珍しいなと思ったんだ。
 言うだけで、実際にするのは怖がっている人が多いから。
 ただ、珍しくて仕方がなかった。
 そんな僕が、彼女に話しかけたのが始まりだった。
 場所は、放課後の図書室だった。
 窓の側で、ぼんやりと夕暮れの景色を眺めていた。
 前々から興味を持っていた僕は話しかけた。 彼女は、そっけなかった。
 すべてのことが、どうでもいいみたいな態度だった。
 それでもめげずに、しつこく話しかけていたら、友人になっていた。

 そして今は、学校の屋上でお昼を食べている。
 正座を崩したような格好で座っている彼女の手には、持ってきたであろうお弁当箱。
 僕の手には、学食で買ってきたパン。それと、コンビニで買ってきたお茶。
 数種類ある中、メロンパンだけは二個ある。
 屋上には、居眠りしている生徒が何人かいるだけだった。
 無言のまま、彼女がお弁当箱を開けて、食べ始めた。
 それを見て、僕もパンの袋を開けて、噛り付いた。
 基本的に僕が話しかけないと彼女は喋らない。
 大人しいというよりは、無口のようだった。
 そこで、食事中に話さないだろうことを僕は口にした。
「ねえ、何で佐伯はリストカットをするの?」
 卵焼きをつまんだ彼女の箸が、ぴたりと止まった。
「……食事中に話すことじゃない」
「話題がないんだから、仕方がない」
 パンを咀嚼して、飲み込んだ。今食べているのはメロンパンだ。
「前に、話したはず」
「死にたいからっていってた。それで?」
 じーっと彼女に見られてしまった。
「死にたいなら、方法はいくらでもある。なんで、リストカットなの」
「まだ、死にたくはないから」
「……怖いの?」
 彼女は、首をふるふると横に振った。
「死ぬことは、怖くはない。でも、別の事が怖い」
 それを聞いて、僕はとても不思議に思った。
 死ぬことよりも、怖いことなんてあるのだろうかと。
「何が、そんなに怖いの?」
 小さな声で、彼女は言った。
「忘れられる事」
 いつの間にか、彼女の箸は止まっていた。
「死ぬと、お葬式をしてそれで終わり。身内が死んだら、誰が私を覚えていてくれるの?」
「僕以外にも、たくさんの人がいる」
「全員死んでしまえば? 誰も、私の事を知っている人はいない。それが――怖いの」
 正直言うと、僕は驚愕していた。
 死ぬことは、怖いだろうなとは思っていたけれど。忘れられるのが、怖いなんて。
 人間の寿命は永遠じゃない。人の記憶の容量も、ちっぽけなもの。
 本にだって、僕らみたいな一般人のことは、何一つ記録されない。
 学校のアルバムとかには残るかもしれないけれど。
 名前と、姿が残るだけで。"僕ら"を知っているわけじゃない。
 人に忘れられていくことは、当たり前だと思っていた。
 だから僕は、それを怖いなんて感じたことはなかった。
「死ぬと忘れられる。それは、死が怖いってことになるのかな?」
「わからないし、わかりたくもないわ」
 そういったきり、彼女は食事に集中し始めた。
 僕も、食べかけのメロンパンを片付けることにした。
 柔らかな風が吹く屋上に、沈黙が訪れた。
 しばらくすると、彼女がぽつりといった。
「今度、私の家に来る?」
 僕は食べていたパンを、喉に詰まらせそうになった。
「何で?」
「リストカットするから。見に来るかと思って」
「そう。見に行ってもいいかな」
「ええ」
 そんな理由で誘う方も方だが、誘いに乗る僕も変だと思った。
 少し話して、今度の日曜日に彼女の家に行くことになった。
 携帯を開いてカレンダーを見ると、今日は金曜日だった。
 以外にも、近いことが判明した。
 意味もなく日々を過ごしていると、日付の感覚がわからなくなる。
 携帯を閉じると、彼女が僕の方を見つめていることに気づいた。
「何かあった?」
 そう尋ねてみるも、彼女からの返事はない。
 僕は彼女の視線を辿ってみて……あるものに行き着いた。
「メロンパン、食べる?」
 彼女が見ていたのは、もう一つ買ってあったメロンパン。
 僕の言葉に、彼女はこくりと頷いた。
 どうやら、彼女はメロンパンが好きなようだった。
 彼女の意外な一面が見れた、お昼休みだった。

 
 あっという間に約束していた日曜日が訪れた。
 最寄の駅まで行って、そこからは彼女に案内してもらった。
 見知らぬ街を歩いて、見知らぬ家に着いた。
 上がっていいのかと気になったが、両親は留守らしい。
 玄関で靴を脱ぎ、少し埃のたまった階段を上がる。
 少し色の褪せた扉を開けて、彼女は中へ入った。
 後ろにくっつくようにして僕も中に入った。
 彼女の部屋の中は、無機質だった。
 壁にポスターも貼ってなければ、ぬいぐるみの一つも置いてなかった。
 女子の部屋というと、そういうイメージがあった。
 誰もがそうとは限らないから、変な先入観なのかもしれない。
 ただわかるのは、死にたがりの部屋としては、ぴったりだということ。
「いつまで立ってるの?」
 彼女に言われて僕は、部屋に入ってから立ったままだということに気が付いた。
 勧められるがままに、円テーブルの側にあるクッションの上に座った。
 隣には、彼女が座っていた。
 テーブルの上を見ると、空の花瓶と、カッターナイフが置いてあった。
 カッターは百円均一などでよく見かけるものだった。
「準備が早いね、ずいぶん」
「ん。普段から置いてあるから」
 なるほど。かなり頻繁に切っているようだ。
 テーブルの上のカッターを見つめていると、彼女がそれを手に取った。
 おもむろに着ていた制服の袖をめくると、手首を切りつけた。
 ためらいのない仕草で、スッと真横に線を引くように。
 作られた傷口からは、徐々に血が滲みだしてきた。
「いきなりやるんだね」
「別に、合図しなくたっていいでしょう?」
 そういうと、彼女は自分が切った手首を見ていた。
 傷口を見ながら、しきりに首を傾げている。
 何を考えているのかな、と思った矢先。
 さっきよりも強く、彼女は手首を切りつけた。
 うっすらと滲む程度だった血が、今度は勢いよく滴り落ちる。
 手首から指先へと流れた血は、ゆっくりと丸い珠になる。
 少しずつ膨らんだ珠は、敷かれていたカーペットに吸い込まれていく。
 血の珠を吸い込んだ布は、そこだけ赤く染まった。
 二対の瞳が、流れていく血を見つめているだけ。
 言葉も交わさない。止血もしない。
 流れていく血の色は、ワインを連想させた。
 血の色というのは、とても魅惑的な色をしていると思う。
 そのものがまるで生きているかのように。
 僕はとても奇妙な気分になった。
 傷口を眺めている彼女に声を掛ける。
「ねえ、紙コップはあるかな」
「あるけど……何に使うの」
「佐伯は、繋がりが欲しくない?」
 彼女は何をいっているのかわからない、という顔をしていた。
 かくいう僕も、よく理解はできていなかったのかもしれない。
「忘れられるのが嫌なら、忘れられないような繋がりを作ればいいんだよ」
 難しい顔をしていた彼女が立ち上がった。
「よくわからないけど……持ってくる」
 そういい残すと、彼女は部屋を出て行った。
 恐らく僕が頼んだ紙コップを取りにいったのだろう。
 そんなには時間がかからないだろうと僕は思った。
 大体紙コップなんてものは、台所とかリビング付近にあるものだから。
 ちなみに、僕の家に紙コップはない。
 
 血が付いたカッターを眺めていると、彼女が戻ってきた。
 お徳用と書かれた袋には、たくさんの紙コップが入っていた。
 それをテーブルの上において、彼女が言った。
「それで何するの、桐生」
 うん、と返事をしながら僕は紙コップを二つテーブルに出した。
「佐伯はさ、血って飲める?」
 そう聞くと、彼女の首が傾げられた。
 いや、僕も変なことを聞いたな、とは思っているんだけれど。
 普通の人は、飲めないと答えるだろう。彼女はどう答えるのだろう。
 少しわくわくしながら、答えを待っていると。
「飲んだことがないから、わからない」
 なんとも微妙な答えが返ってきた。
 ここで飲める、といわれたらそれはそれで嫌だけど。
 飲みたくない、ではなくわからないということは……飲んでみてもいいということなのだろうか。
 僕が頭の中で考えている中、彼女は手首を見つめていた。
 先ほどまで滴り落ちていた血液は、凝固してしまっていた。
「そんなこと聞いて、どうするの」
「ちょっとね、やってみたいことがあって」
 そういい僕は、彼女にこれからやろうとしていることを説明した。
 僕と佐伯、それぞれが、自分の手首を切るんだ。
 浅くじゃなくて、結構深く切る。血が滴り落ちるくらいに。
 流れ出た血を、紙コップに溜めるんだ。大量にじゃなくていい。
 そうだね、一口ぶんくらいあればいい。
 その後はお互いの紙コップを交換して、それを飲み干すんだ。
 そこまで僕は、一気に喋った。
 それから、彼女にもう一度尋ねた。
「佐伯、どう、血は飲めそう?」
「……たぶん、大丈夫。でも後で吐くかも」
「飲めればいい。口なら塞いどいてあげるから」
「何か嫌な予感がするんだけど」
「きっと気のせい」
 それから彼女は部屋の中にある小物入れに向かうと、もう一つカッターを持ってきた。
 いい考え。二つあるほうが、やりやすい。
「それで、もう始めていいの」
「ああ、いいよ。僕も始めるから」
 紙コップを、手首の下辺りに置く。
 僕は彼女が持ってきたカッターを手に取り、手首に近づけた。
 そのまま、躊躇わずに、力を込めて押し当てた。
 押し当てただけでは切れないから、そのまま手前に力いっぱい引いた。
 彼女は平気そうにしていたけれど。それは慣れだからだろう。
 だって、今僕の手首は熱く脈を打っている。
 空気に晒された傷口が、蝕むように痛んでいる。
 出血が止まらないよう、数秒の間隔で手首を切る。
 流れ落ちた血が紙コップに少しずつ溜まっていく。
 痛みに顔をしかめながら彼女を見ると、無表情だった。
 僕と同じように、紙コップの中を見つめていた。
 彼女の表情が不思議でたまらない。
「ねえ、何で痛いのにそんな顔でいられるのさ」
「痛みなんて、いつかは慣れる」 
「感じないふりをしているだけじゃなくて?」
「どうでもいいことよ」
 彼女は、そういったきりまた黙ってしまった。
 不毛なやりとりをしている間にも、血は溜まっていく。
 いつのまにやら、飲み干すには十分な量が溜まっていた。
「これだけあれば、大丈夫だと思うよ。止めようか」
 そこで、ふと気づいた。
 テーブルの上にあるのは、カッターと紙コップだけ。
 肝心の、止血する道具がない。
 腕を締めて止めるのはいいけど、傷口を晒したままにはしたくない。
 包帯を頼もうかと思ったとき。
 彼女がスッと立ち上がり、部屋の棚から包帯を持ってきた。
「ありがとう。今、頼もうと思ってたんだ」
「このままじゃ、衛星的に良くない」
 彼女から受け取った包帯を手首に施した。
 これで、僕は普段の彼女と同じ格好だ。手首だけは、ね。
 それからは僕は、紙コップを彼女のものと交換した。
「……飲んでいいの?」
「うん。できれば、吐き出さないでもらいたい」
「努力する」
 彼女は、ぐいっと紙コップを傾けた。
 ずいぶんと、勢いよく飲んでいる。……見ている場合じゃない。
 なんとなく片手にカッターを持ったまま、紙コップを手にした。
 ゆっくりと、中身を口に運んだ。
 ぷんと鉄の匂いが漂ってから、味がした。
 苦いかと思っていたが、鉄っぽい味が強かった。
 古い水道から出た水を、飲んだ味に近いかもしれない。
 空気に触れて酸化したのか、固まったのか。
 少しざらりとした舌触りを感じた。
 それと、微かな甘みとほのかな酸味。
 色だけは、ワインみたいな濃い赤だった。
 彼女を見ると、すごく微妙な顔をしていた。
 洗い立てのコップで水を飲んだら、洗剤が残っていたような。
 苦いものを食べたときの顔に似ていた。あまりよろしくなかったらしい。
 別に僕もおいしいと思ってるわけじゃないけど。
 ん……よく見ると彼女の唇に血がついている。
「佐伯、唇に血がついてるよ」
 僕はそういいながら彼女へと近づいた。
「え、あ、本当だ」
 そういいながら何故か彼女は僕のことをひっぱたいた。
 そうした後に、自分の唇を指でぬぐった。
「……何するのさ」
「いや、何か身の危険を感じたから」
「……カッター返そうとしただけなんだけど」
 ごめん、と彼女は小さく言った。
 身の危険って、一体何をされると思ったんだろうか。
 それで……と彼女が言った。
「それで、さっきやったこと、どんな意味があるの?」
「二人の血を交換して飲んだだろう? 血液に混じって、体の中を流れ続ける」
「いずれは薄まるでしょう」
「でも、交換した事実は消えない。僕達二人を繋ぐ、紅い糸になるんだよ」
 運命の赤い糸なんて、もろく儚いもの。
 でも、血の繋がりはどんな絆よりも強いもの。
 切ろうとしても、離れられないくらいに。
 ふうん、と彼女はいった。
 なんだか、とてもつまらなさそうな顔をしている。
 だったら飲まなければいいのにねえ?
「赤い糸っていうと、運命のなんとかを思い出す」
「あんなもの、不確かじゃないか。これは、いつまでも切れない糸だよ」
「へえ。誰が保障するの?」
「他でもない、この僕さ」
「あてにならなさそうね」
 そういって彼女は、今日初めて微笑んだ。

 僕と佐伯が紅い糸を結んでから、一週間が経った。
 数日後には、卒業式が行われる。
 そうすれば、僕も佐伯もこの学校を卒業して、それぞれの道へ行く。
 僕は進路を決めていないので、進路未定者。
 いわゆる、フリーター生活に突入する。
 彼女は、専門学校に行くらしい。学科はまだ決めていないそうだが。
 あれから、僕達の間ではとくに進展はない。
 あるといえば、携帯のアドレスを教えてもらえたことだろうか。
 糸だけではなく、電話でも繋がった。
 所詮は機械は壊れたらおしまいなんだけれど。
 僕は特に今までと何も変わっていない。
 目標も見出せないし、探す努力も面倒くさい。
 相変わらず僕のレールは果てが見えない。
 ただ、何処に続いていくのかもわからないレールには、時折見えるものがあるだろう。
 レールに、僕に絡みつく紅い糸。
 その紅い糸がもたらすのは、仮初の安心か、永久の束縛か。
 それはまだ、今の僕にはわからない。
 ただわかることは、ひとつだけ。
 僕は、佐伯のことをずっと忘れられないだろう。 



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