とても、月が綺麗な夜だった。
空が綺麗に澄んでいて、ぽっかり満月が浮かんでいた。
ときおり吹く風は爽やかで火照った体には心地よい。
長いスカートがふわりと揺れる。
私の目の前には、大きな木に縋りつくようにして震えている男が一人。
愛しい愛しい私の大切な人。
でも、どうしてそんなに震えているの? 脅えているの?
私は、あなたを私のモノにしに来ただけなのに。
何も怖がることなんてないのよ。
「ねえ、どうしてそんなに震えているの?」
尋ねてみても何も答えてはくれない。
ちらちらと、私の右手にある物を見るばかり。
「ああ……ごめんなさい。これが怖かったの? 言ってくれなきゃわからないわ」
私が握り締めている、新品のナイフ。
いざというときに切れないと困るから、わざわざ用意したの。
いきなりナイフを見せるのはよくなかったのかもしれないわ。
そんなにナイフって、怖いかしら? 逃げ出すくらいに?
私は学校の入り口に呼び出したのに。
あなたったら、私とナイフを見るなり逃げ出しちゃうんだから。
あんなに早く走れるなんて、私知らなかった。
どこに行くのかと慌てて追いかけたのだけど、すぐに見失ってしまったの。
早く見つけないと、って必死だったのよ。でもね。
うろうろしてたら、公園の大きな木にくっついてたのよ。
とってもびっくりしたわ。それに滑稽だったわ。
抱き枕じゃないんだから、そんなものにくっつかないで。
私を抱きしめてよ。
見つけたと思ったのに、さっきから何も話してくれないの。
ガタガタ震えているばかり。
触ろうとしたら、手を振り払われてしまったわ。ひどい。
私はただ、あなたと一緒にいたいだけなのに。
どうして理解ってくれないのかしら。
ああ――もう我慢できない。
私は震えている愛しい人に近づく。
「ねえ、あなたを私に頂戴?」
私がその光景を見たのは、冬休みの頃だった。
そのときには、あなたはもう私のことを見ていなかったのかもしれないわね。
遊びに行こうと誘っても、バイトが、用事があるから。
いつもそれの一点張りだったわ。
私はとっても退屈していたのよ。
たまに遊べたかと思えば、頻繁に携帯をチェックしているし。
街で知らない女の子と二人っきりの姿も見かけた。
あなたは……知らないでしょう? 私が後をつけていたなんて。
鈍感だものね。
そんなところも愛しいけれど。
それっきりなのかなって思ったのに。
あなたは何回も何回も、女の子達と遊んでた。
私をほったらかしにして。
私の前では笑ってもくれなくなっていたのに。
女の子達の前では、馬鹿みたいに笑顔。
どうしてその微笑を私に向けてくれないの?
余所見しないでいて。
私のことだけ見ていて。
他の女の子なんか。
私の事だけ見ていて欲しいの。
あなたは誰にでも親切で、丁寧で、優しくていい人。
でも、私が欲しいのはそんなあなたじゃないの。
皆に見せているあなたじゃないのよ。
そんな振りまいているものはいらないの。
私は、ワタシだけのアナタが欲しいの。
それ以外なんて、必要ない。
私はあなたのことをこんなにも想ってるの。
余所見なんてせず、一途にひたすら想っているの。
あなたは私をどうして見てくれないの?
どうして私を愛してくれないの?
わからないわ。
でもね、これだけはわかったの。
あなたが私を見てくれないのなら、私のモノにしてしまえばいいのよね。
無理やり振り向かせればいい。
手段なんて、問わない。
どんなことだって厭わない。
あなたが私を見てくるのならば。
腕ずくでも奪い取ればいいのよね。
私は、あなたに全部あげる。
カラダだって、ココロだって、何だってあげるわ。欲しいものは全部捧げる。
だから、あなたを私に頂戴。
私はあなたが欲しいの。
深夜の公園に響く、濡れた音。
濃厚な甘い香りが、私の脳を犯してゆく。
私は愛しいあなたにナイフを突き刺す。
深く深く、何度も繰り返し。
瞳が虚ろに見開かれて、震えが止まっても。
私は一息ついて、愛しい人を見つめる。
私を見つめたまま、動かない瞳。
――やっと私を見てくれたわね。
赤い赤いあなた。
とっても綺麗なあなた。
私だけの、あなた。
私の血は黒ずんでいるけど、あなたの血はとっても鮮やかな赤色。
熟した柘榴みたい。
きっと舐めたら、綿菓子のように甘いのでしょうね。
血まみれのあなたを抱きしめながら、狂喜に浸る。
これであなたは私のもの。
私だけのあなた。
そして私はあなただけのもの。
私はあなたがいないと生きていけないの。
あなたもそうでしょう?
手に入らないのならば、奪い取ってしまえばいいのよ。
手に入るのを待っているなんて、そんなことできないわ。
ずうっと一緒。
これで二人はずうっと一緒にいられる。誰にも邪魔されずに甘い時間を過ごせるのよ。
あなたは私のモノなんだから。
ねえ、二人きりになれたんだから、どこかへ遊びに行きましょう?
何処か遠い所。人のいないところがいいわ。
この街は、人が多すぎるもの。
そしたら、二人で暖まりましょう。
あなた、とっても冷たいもの。
愛しい人を抱きしめながら、ぼんやりと考える。
狂喜はさり、正常な思考が戻ってくる。
繰り返される自問自答。
私は……間違っていたのかしら?
そんなはずないわ、これでいいのよ。
そうよね。私は正しい。でも――それなら何故動かないの?
当たり前でしょう。自分のモノにするっていうのは、そういうことなんだから。
わかっているわ……理解っているけれど。
これからは、私が面倒を見てあげるのよ。動けないのだから。
そうしたら、また笑ってくれるかしら。
二度と笑わない。それは解っているでしょう?
私の中に、笑顔は残っているのだから、それで十分よ。
……どうしてかしら、胸がさっきから痛いの。
それは気のせいよ。だって、欲しいものは手に入れたでしょう。
私が本当に欲しいものってなんだったのかな?
今更そんなことを言ってどうするの。
もう――戻れないのよ。
見上げる夜空に浮かぶのは、白銀の月。
力の抜けた手で握るのは、赤に濡れた銀色ナイフ。
後悔に零れた一滴。
愛しい愛しいあなたを彩る――銀彩。