暖かい春の日差しが降り注ぐ桜並木。
柔らかく吹く風には微かな桜の香りがした。歩く少女と青年の前を花びらがひらひらと舞った。
木の間を歩く少女の顔は、年相応に明るいもので、輝いていた。
隣を歩く青年も、時折目を細めながらも桜を眺めている。
青年と少女は、家の近くにある桜並木へとお花見をしにきていた。
きっかけは、青年の何気ない一言だった。
『よかったら、お花見に行かないかい?』
「お花見……何で?」
自室から起きてきた少女に、青年はそう告げたのだ。少女はまだ少し寝ぼけていた。
その提案を聞いたとき、少女は何故花見に行くのかが不思議で仕方がなかった。
確かに桜は綺麗だけれど、わざわざ見に行くほどのものかしら?
それに、外は大勢の人がいて賑やか。賑やかすぎて、うっとおしいくらいに。
つまり少女は、そういった季節の行事には疎かったのだ。
一身上の都合もあるだろうが、普通の生活だったとしても、好んで行くようなタイプではないのだろう。
憮然とした顔をしている少女を見て、青年は聞いた。
『お花見、行ったことはあるかな?』
少女は少し考えてから、答えた。
「随分まえ。もっと小さい時だけれど、行ったことはあるわ」
母親と。
最後の言葉は口に出さずに、少女はそういった。
行ったことがないわけではないし、嫌な記憶でもない。
けれども、少女はやはり気乗りしないのであった。
『それじゃあ、やっぱり行ったほうがいいね』
青年がそういったのは、数分後だった。
一体、何でそういう結論になるのかと、少女は不思議で仕方がない。
あぁ……やっぱり彼は、何を考えているのかあまりわからないわ。
頭が痛くなりそうな少女を尻目に、青年はいそいそと台所で準備を始めていた。
どうやら、お弁当を持っていく気らしい。随分と本気のようだ。
小さなため息をついて何かを諦めた少女は、自分も手伝うべく台所へと近づくのだった。
そうして作られたお弁当を手に二人はお花見に来たのだった。
その包みは青年の手に持たれている。
少女が持つといったのだが、青年は転ぶと危ないからと却下したのだ。
隣を歩く少女は、すれ違う人々を見ながら言う。
「眺めている人はいるけれど……騒いでいる人はいないのね」
花見というと、とても騒がしいイメージがある。
あまり騒がしいのは苦手だから、そうじゃなくてよかったのだけれど。
見ている人は多いものの、宴会とか大騒ぎが始まりそうな気配は感じられなかった。
首を巡らせて桜を眺めながらも、何かに追われるようにして歩き去る人がほとんどだった。
いったい、どこでお花見をするというのだろう。
少女が首をかしげながらも歩いていると、視界にいくつかのベンチが映った。
まさかと思っていると、青年はすたすたと歩いていき座ってしまった。
そのまま少女に向かっておいでおいでをした。……どうやら座れといいたいらしい。
それを見てゆっくりとした動きで少女はベンチへと歩いていき、青年の隣に座った。
「ベンチに座ってお花見するとは思わなかったわ……」
『地面に座らなくてもお花見はできるからね。前のときは、シートでも敷いてたの?』
「そうね、普通のお花見だったわ……って、わたしのことはどうでもいいじゃない」
顔を背けてしまう少女を見て、青年は微笑みながら紙を差し出した。
『それじゃあ、見ながら食べようか?』
青年の手が包みを開けるのを見ながら少女は思った。
なんだかこの人は、いっつも笑ってばかり。おっとりしているというか、天然というか。
よくいえば、マイペースなのかしら。
考えつつも、開かれたお弁当の中身を見る。
ウィンナー、煮物、おにぎり、からあげに厚焼き玉子など、定番といえるような内容の物が詰まっていた。
卵焼きには少し焦げているものがあり、それは少女が作ったものだった。
前回のように悲惨な結果にならなかったのは、青年の手伝いがぎりぎり間に合ったからである。
一緒に包んであったおはしで卵をつまんで食べる少女の頭の中では。
……まだ、大丈夫よね。前よりは、ましなはず。ちょっと苦いけれど。
自分の作ってしまった料理についてのことでいっぱいだった。
青年はおにぎりをぱくつきながら、桜を眺めていた。
相変わらず青年の料理はよく出来ていて、少女のはしはよく進んだ。
あらかた二人は食べ終えると、何もいわずに桜を眺めていた。
舞い散る花弁を見ていると、少女の脳裏にいつかの光景が浮かんだ。
まだ、わたしが独りじゃなかったころ――
眩しい日差しの下で、シートを囲んでお弁当を広げていた。
二重三重、多すぎるくらいのお弁当を囲んでいるのは、わたしと、母と父。
桜の木の周りはうるさいくらいに賑やかで、大勢の人が楽しそうにしている。
綺麗に敷き詰められたおかずを、三人のはしがつつきあう。
家事とは無縁のように見える、すらっと細くてしなやかな、赤いマニキュアの塗られた母の指。
節くれだってはいないけれど、力強さを感じさせる大きな父の指。
お弁当箱から顔を上げれば、父は桜を見ながらお酒を飲んでいてほろ酔い。
隣には、そんな父をたしなめながらも、穏やかに微笑んでいる母の姿。
時折、父の頭についてしまった花弁を母が取ってあげていた。照れくさそうに微笑む父。
それを眺めながら、大きすぎるおにぎりを食べている、わたし。
穏やかで、しあわせで、暖かな記憶の光景。通り過ぎてしまった、戻れない風景。
青年が小さくくしゃみをした音で、少女は一度ゆっくりと瞬きをした。
今まで、昔のことなんて思い出したくもないと思っていたのだけれど。
振り返ってみるのも、悪くはないと思えるようになっていた。
そんな自分に驚きつつも、嫌な気持ちにはならなかった。むしろ、心地よいかもしれなかった。
懐かしくて、温かくて、少しだけ胸が痛むけれど。
そういうものなのだから仕方がないと、そう思えば楽になった気がした。
深呼吸をしてから、青年の方を見た。
いつのまにかお弁当は片付けられていて、青年はまだぼんやりと桜を眺めていた。
「そろそろ、戻った方がいいかしら? 少し風が強くなったわ」
気が付くと、だいぶお昼を過ぎていたし、通る人の量も減っていた。
くしゃみをしていたのも気になった。お花見にきて風邪を引いたなんて、笑えないもの。
少女の言葉に頷いた青年と共に、二人はベンチから立ち上がった。
その際に身体に乗っていた花弁が数枚落ちたが、青年の髪にはまだいくつか絡まったままだった。
ただ座っていただけなのに、どうして絡まっているのかは不思議だったが。
少女は背伸びをすると、青年の髪についていた花弁を払い落とした。
青年は少し驚いていたが、やがて少女に言った。
『ありがとう』
音のない言葉は聞こえなかったが、少女の心にはしっかりと届いた。
少しぎこちないながらも、少女は微笑んだ。目を細めて桜を見ながら青年は言った。
『また、来年もお花見に来たいね』
二人で、といったのか、一緒にといったのか、少女には読み取ることができなかったけれど。
「そうね。お花見も……悪くはないわ」
答えて、二人は家に戻るために歩き出した。
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