涙零れた冬の日

 冬は、寒くてなかなか眠りにつくのが大変なものだ。
 ましてや、その日外では雪が降っていたのだから、なおのこと。
 やっと落ち着いたかと思うと、隙間風で目を覚ましてしまったりする。

 静かなその夜。ついさきほどまで寝ていたはずの少女は目を覚ましていた。
 何故かはわからないが、目が覚めてしまったのだ。
 少女の部屋にも居間と同じように暖房が設置されているし、ベッドの中にゆたんぽも持ってきてある。
 だから、寒くて目が覚めたのではないはずだ。
 ふとんをかぶったまま、しばらく少女は目をぱちぱちとさせていた。
 起きちゃったけれど……どうしようかな。
 枕もとの時計を見てはみたものの、まだ夜中に一時。起きて何かをする時間じゃない。
 かといって、このまま眠ることもできなさそうな感じだった。
 夜更かしをしたわけじゃあないのに、なんでこんなに頭がすっとしているのかしら。
 意識が冴えてしまって、ちっとも眠くないわ。
 とりあえず……何か飲んで、後はベッドで頑張ってみようかしら。
 寝よう寝ようと意識するほどに、眠れなくなったりするものなのだけれど。
 もそもそとベッドから出ると、ぶるりと身体が寒さで震えた。
 暖房の名残はあるものの、やはりついていないと寒い。
 身体をぎゅっと抱きしめながら、居間へと少女は歩いていく。
 途中、青年の部屋を覗いてみたものの、暗くてよく見えなかった。
 静かだから、よく眠っているようだった。ぼんやりとだがかけられているふとんが見えた。
 昼間部屋を覗くと、しっかりとふとんが畳まれている。
 だからいまも、きっとしっかりとふとんが身体に掛かっているのだろうと少女はおもった。
 わたしなんかは、よく落としたり、ずれたりするのに。性格かしら……
 そういう場合、たいていは気づいた青年がちゃんと直してくれているようである。
 その後居間へと向かう途中、暗いせいか何度か少女は壁などにぶつかってしまった。
 仕方がないので、廊下の電気をつけることにした。青年の部屋の扉はちゃんと閉めてある。
 台所へ行き、牛乳を耐熱コップにいれて暖める。
 寒いときは、温かいものが一番いいわよね。
 なかでもホットミルクは、飲むと何故だかうとうとと眠気がやってくるからありがたい。
 暖め終わったものにはちみつを加えて、しっかりと混ぜてから飲む。
 熱い感覚が、喉を通り過ぎて胃のあたりへと落ちていく。
 お腹の底からぽかぽかと暖かくっていく感覚が心地よい。
 ほう、と口から吐息がもれる。台所にたったまま、ゆっくりと飲み干した。
 さっきより、少しは落ち着いてきたような気がする。
 未だに眠気は訪れないままだったが、いつまでも寒いところにいてもどうしようがない。
 少女は自分の部屋へと戻ることにした。
 戻る途中で、少女はまた青年の眠る部屋を覗いてみた。
 開けた扉の隙間から差す明かりで、少し斜めにずれているふとんが見えた。
 少しでもずれていると、隙間から寒い空気が入って、凍えてしまいそう。
 そう思った少女は、青年を起こさないように静かに部屋へと入った。
 ベッドに近づく途中、部屋に置かれていたテーブルにぶつかってしまった。
 隙間から差す明かりを頼りに、青年の身体にしっかりとふとんを掛けなおす。
 ふだんは、わたしが直されているのかもしれないわね。
 そんなことを思いながら、ずれた布団を直していると、うっかり青年の身体に触れてしまった。
 起こしてしまう、と思って、慌てて青年の眠ているベッドから離れた。
 数秒たったけれど、青年には起きる様子がなかった。
 起こしてしまわなかったのだから、少女は安心して部屋からでていけるはずだった。
 けれども部屋から出て行かずに、少女はその場に立ち尽くしていた。
 薄暗い部屋の中で、今青年に触れたばかりの自分の手を穴が開きそうなくらいに見ていた。
 冬の夜は、寒く凍える。だから、眠っているうちに身体が冷たくなってしまうことはよくある。
 けれども。
 人の身体が、氷みたいに冷たくなるなんてことはないわ。だって、生きているんだから。
 なら、なら……今彼の身体に触れた指先が感じた冷たさは、間違い?
 少女は、彼に声を掛けようと思った。起きてしまうことを承知で。
 自分の考えていることが、嘘で何かの間違いなのだと証明してもらうために。
 そう、きっと悪い夢なのだと。彼にそういってほしかったの。
 だからわたしは、彼の名前を呼ぼうとして――呼ぶべき名前を知らないことに気が付いて愕然とした。
 わたしは、彼の名前を知らない。……わたしの名前を、彼は知らない。
 酷いめまいのように、ふらふらとして、今にも倒れてしまいそうになる。
 寒さではなく震える指で、たった今直したばかりのふとんをはがして、彼の身体をゆすった。
 最初はそっと。だんだん激しくゆすったものの、青年は目を覚ますことはなかった。
 胸に触れた指からは冷たさしか伝わらなくて。望んでいた鼓動を感じることはできなくて。
 どうにもならないとわかっていたけれど、少女は青年の亡骸を抱きしめた。
 彼の身体に、少しでもこの体温が伝わってくれればいいのに。
 冷えてしまった身体を離して、少女は青年の顔を見た。その顔はとても穏やかな表情をしていた。
 ベッドの傍に立ちつくしまま、少女はぐるぐると考える。
 彼は……どうして死んでしまったのかしら。一体何が原因だったのかしら。
 まだ風邪は治っていなかったの? それとも何か別のことが原因で?
 ああ、わからない。
 苦しそうな顔はしていなけれども、つらくはなかったのかしら。痛くはなかったのかしら。
 何も感じずに、いってしまったのかしら。この冷たい部屋で一人きりで?
 彼は声がだせないのに。苦しいとも痛いともいうことができないのに。
 夜寝る前に、ちゃんと挨拶もして……動いて、生きていたのにどうして。
 いつなくなったのかもさえもわからないなんて。せめて傍にいてあげられればよかったのに。
 こんなに突然いなくなるなんて、まったく考えていなかったわ。
 いつまでもとはいわないけれどまだこの日々は続いていくと思っていたのに。
 いつだって、死神は唐突にやってきて、有無をいわせずに誰かを連れ去っていく。
 病院とか、警察とか、やるべきことはあるはずなのに身体が動かなくて。
 部屋の明かりをつけることが、その時の少女にできる精一杯のことだった。
 明るくなった部屋で見る青年の顔は穏やかなままで。よけいに悲しくなった。
 こらえきれずに視線を横にずらすと、テーブルの上に何かが置かれているのに気づいた。
 オレンジ色のリボンが巻かれた箱だった。その傍にはひとつの封筒が添えられるようにしてあった。
 少女はふらふらと近寄り、封筒を開けて中に入っていた手紙を読んだ。
 それは、青年から少女へと向けた手紙だった。
 遺書などというものではなくて、ただ少女と過ごした日々について綴られていた。


 どうしてこんなものを書いているのか、僕自身も不思議に思っているよ。
 でも、手紙という形で思い出を君へと残していくのもいいかもしれないと思ったから。
 どこか遠くに僕がいってしまっても、記憶と一緒にこの手紙は残るだろう?
 本当は言葉で伝えられるのが一番いいんだけど、それができないから。
 
 僕が君と出会ったことは、僕の人生の中で唯一の幸運かもしれない。
 君を拾ったのは偶然だったけれど、後悔なんてひとかけらもない。
 誰もが僕を疎むのに、君は受け入れてくれたんだから。
 僕はひとりで、君もひとりだったから……似たものどうしなのかもしれないね。

 君がこの手紙を読んでいるとき、僕はどうしているだろうか。
 もしかしたら違う場所にいるかもしれないし、まだ一緒に暮らしているかもしれない。
 でも、今の僕が言えるのは、どこにいても君の事はずっと忘れないだろう。
 だから君も僕のことを覚えていてほしい。声のだせない、不器用な奴がいたってね。
 いつもずっとじゃなくてもいい。ときどき、思い出して懐かしんでくれたならそれだけで。
 きっと手を伸ばしたかいがあったんだよ。

 いつまでも書いていてもきりがないから、そろそろ終わらせるね。
 ああ、そうだ。たぶんこの手紙の横に、箱が置いてあると思うのだけれど。
 僕から君への、最初で最後になるだろうプレゼントだよ。
 君は覚えているかい? もうじき、僕達が出会ってから一年になるんだよ。あっという間だったね。
 君はあの時寒そうにしていたから……ひとりでも、寒くないように。
 それじゃあ、またいつかどこかで。
 (もし何でもないときにこれを読んでしまったなら、そっと戻しておいてほしい)
 

 何枚もある手紙を読み終わるころには、少女の視界はかすんでいた。
 手紙の文字も、所々にじんで読みづらくなってしまった。
 便箋をしっかりと封筒の中にしまってから、箱を包んでいるリボンを解いた。
 震える指で、そっと箱を開けると。
「これ……」
 箱の中に入っていたのは、手袋とマフラー。どちらも、淡い陽だまりのような色をしている。
『ひとりでも、寒くないように』
 先ほど手紙に書かれていた言葉が、頭の中を巡って……胸がつまって息ができなくなる。
 一人きりの部屋の中、大切な物を抱きしめたまま少女は泣いた。
 手袋やマフラーで身体が暖かくても、心に思い出が残っていたとしても。
 わたし一人じゃ意味がないのに。彼がいなくちゃ意味がないのに。
 どんなに泣いても叫んでも取り乱しても、彼に二度と会うことはできない。
 出会わなければよかったとは思わないけれど……
「やっぱり――ひとりは寒いよ」
 少女が呟いた言葉に答える言の葉はあらず。
 冷え切った部屋の中、静かに木霊して消えていった。
 
 
   
 

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