あの後、医者を呼んで調べてもらったのだけれど。
彼がなくなったのは風邪をこじらせてしまったのが原因らしい。
買い物になんか行ったりしないで、家でゆっくりしていれば……とか。
色々後悔することはあるのだけれど。今となってはもう遅くて。
わたしが何をしても、彼はいずれ死んでしまったのかもしれない。
あの夜は、そう思い込むのが精一杯だった。ただ、逃げているだけでしかないのに。
その後、ひっそりとお葬式などを行ってわかったことがあった。
わたしは彼がそれなりにお金を持っていることが前から不思議だったのだけれど。
彼の元家族が仕送りをしていたらしい。
そこそこに裕福な家で、それなりの評判もあったという。
彼は、そこの家の長男……跡継ぎとして生まれたのだという。
けれど、病気のせいで言葉を話せなくなってしまったから……切り捨てた。
家の足手まといになる彼を、仕送りを条件として縁を切ったらしい。
それを聞いてわたしは思った。本当に彼も独りだったのだと。
すべて終わってからしばらくは、何もやる気が起きなかった。
一日中ぼうっとして、食事を取ることすら忘れてしまうこともあった。
何回か、商店街の人が様子を見に来てくれて発見されたこともあった。
家族には疎まれていたのかもしれないけれど、あの商店街の中でも彼に普通に接してくれる人もいたらしい。
それからは、ちゃんと食事も忘れずにとるようになった。
そして時折、商店街などに手伝いをしにわたしは行くようになった。
お葬式の頃からそういう話はあったのだけれど、その時は断っていたから。
一人になってしまったのだから、お金だってどうにかしなきゃいけない。
部屋の中にひきこもっていたって、何もいいことはないし、死んでいるようで嫌だった。
そんな生活を繰り返しているうちに季節は巡り、春がやってきた。
薄く色づいた花びらが舞う、桜並木。
前に、あの人と来てお花見をして楽しんだ場所。二人で一緒に来た場所に、わたしは今は一人で来ている。
春風にあおられてひるがえりそうになるスカートを、手にもつ旅行カバンで抑えた。
一本の桜の木の下へとわたしは近寄る。
暮らしていた家をでて、どこか違うところに行こうと考えていた。
ほんの少し懐かしんで、別れを告げるためにこの場所へとやってきた。一番最初の思い出だから。
今だって、まだ考えている。ずっとあの家にいて、彼と暮らしたかったって。
でも、それじゃあ駄目なのだと気づいた。
過去に浸っていればいつまででも楽しいし、変わることはない。でも……ただそれだけ。
ずっと同じ事を繰り返しているだけでは、生きている意味がない。
わたしが彼と出会って、少し変わったように、常に変わっていくのが人間だと思うもの。
同じ所にとどまり続けているなんて、わたしがわたしを許せないから。
泣いているのなんて、きっと彼は望んでいないわ。
お世話をしてくれた人のおかげもあって、旅行にでるくらいのお金もたまった。
わたしは、一人で旅に出る。
わたしみたいな子供がどこかへ行ったって、できることはほとんどない。
それでも、何が起こるかはわからないから……わたしは旅立つの。
ただ生きていくためだけじゃなく、誰かの為に。ただの自己満足で、偽善なのかもしれないけれど。
あの雪の日、彼とわたしが出会ったように。ふとした一瞬に、誰かと交差することがあるというなら。
彼がわたしに手を差し伸べてくれたように、誰かに触れられるというのなら。
わたしは、まだ見ぬ誰かへと手を差し伸べてあげたい。
たとえ何度も空を掴んだとしても、誰にも伝わることがなかったとしても。
たった一人、わたしの手を取ってくれる人がいるならば――それだけでいい。
いつか誰かが触れてくれるなら、伸ばした手も決して無駄ではないと思うことができるから。
『ありがとう』
言葉には出さずに、胸の中でだけそっとわたしは呟く。今はいない、大切なあの人へ届くように。
ありがとう。わたしに手を差し伸べてくれて。
あなたと出会えたことは、わたしの一生の思い出で、宝物。
忘れないで、思い出を抱きしめたままわたしは行くから。
綺麗な花びらが舞う空をわたしは見上げる。眩しく照らしているのは、明るく輝く太陽。
ほんの少しだけ……懐かしい笑顔を思い出して泣きそうになったけれど。
太陽の向こう、果てしなく広がる空へと――わたしは手を伸ばした。
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