小鳥が囀る音で、私は瞼を開けた。
ふかふかと柔らかなベッドから体を起こし、少し考える。
私がいつも起きるのは、早朝ぐらい。
しかし、今鳴いた鳥は、主に夕方から活動を開始する。
まさかと思いつつ部屋の窓を見ると……カーテンが閉まっていた。
「マスター……やってくれましたね」
人間とは違い、機械人形の私は、外部の音や光に反応する。
太陽光が遮られていたために、寝坊をしてしまったようだ。
人形が、寝坊。
なんともまぬけな響きだと私は思った。
くすんだ肌色をしたカーテンを勢いよく開く。
目の前には、夕焼けが広がっていた。
私の髪や瞳よりも、ずっと薄いオレンジ色。
しかし、時折光の加減で、燃えるような赤色にも見える。
太陽とはとても不思議なものだと思う。
燃えるような太陽が沈み、美しく輝く月が昇るのだ。
それが、自然の摂理というもの。
もしも、この街が滅びたとしても、変わらないもの。
こんな事を考えている私も、すごく不思議なのだが。
私は、体を伸ばしながら室内を見渡す。
与えられた当初は、小さなテーブルと、クローゼット。
それに、ベッド。
私には物欲がないから、それだけだった。
本当のところ、ベッドがなくても平気なのだが……
そんなこと言わないでください、といって、彼は譲らなかった。
それが今はどうだろうか。凄いことになってしまった。
『ルナさん、貴女の部屋は殺風景ですから』
彼は何度もそういっては、様々なものを部屋に持ち込んだ。
クローゼットを開けると、カラフルな服がたくさんある。
オレンジ色やピンク色、はたまた蛍光色まで。
隅には、ひっそりと黒のメイド服が置かれている。
彼が持ってきた物を、無下に断りたくはない。
だからこそ、こうなってしまったのだが――
そもそも、私にそんなに服は必要ないと思うのですが。
クローゼットを閉めて、今度はテーブルを見る。
そこには、幾つかのぬいぐるみが置かれていた。
……これも、マスターです。
猫に、鳥に、魚?
足がたくさんあって、丸くて赤いものもある。
どこから持ってきたのだろうと、関心してしまう。
しかし、最近では置ききれないので、三回に一回は断っている。
どうやらその分は、彼の部屋に移動しているらしい。
少し、恐ろしい気がします。
マスターは色々なことをしてくださる。
まるで、私が人間であるかのように。
喜ぶべき、ことなのだろう。
今回も、いつの間にかカーテンを閉められていた。
起こさないようとの配慮なのだろうけれど……
私にも、仕事があるのですよ。
ともかく、下へ行かなければ。
書類仕事くらいならば残っているかもしれない。
私はクローゼットを開き、いつもの服を器用として――止まった。
なんとなく、特に深い意味はないが、他の服を着てみよう。
そんな風に、何故か思った。
「おや、今日は珍しい服を着ていますね。
雨でも降るのでしょうか?」
下へ降りると、マスターが早速声を掛けてきた。
「おはようございます、マスター」
「もう夕方ですよ? ルナさん」
クスクスと笑いながら彼が言う。
妙に機嫌がいいような気がする。
というか、カーテンを閉めたのは誰でしょうね。
私が選んだ服は、淡い黄色のワンピース。
図鑑で見た、牡丹の花のような色をしている。
スカートの裾には、ひらひらとしたフリルが付いている。
少しだけ、動きづらい。
「やっぱり貴女には、そういう色が似合いますね」
私をじろじろと見ながら彼は言った。
なんだか、着せ替え人形になってしまったような気分です。
「……少し派手ではないですか? 髪の色もありますし」
真紅の髪に、真紅の瞳。
組み合わせ的に、派手だと思うのです。
「少しくらい派手な方がいいのですよ。綺麗な色じゃないですか」
そういいながら、彼は私の髪を撫でてくれた。
私は、主みたいだと思った。
主も、よくこうして髪を撫でてくれていた。
あの時は、何も感じなかったけれど――
「ただの繊維と、硝子球です」
妙にそわそわとして、誤魔化そうとしてみた。
間違ってはいないはずです。
私の言葉を聴いて、彼が嗜めるように言う。
「ただの硝子球でも、貴女はそれを通して世界を見ています。
そんな事を言わないでください。貴女の一部なのですから……」
硝子球を通して物を見る機械人形の私は何なのだろう。
疑問が一瞬泡のように浮かび上がり、はじけて消えた。
「それでマスター、仕事はありますか?」
肝心の事を聞き忘れていた気がした。
「今は、特にないですね。ああ、依頼はありましたけど」
今日も依頼があったらしい。最近は、多いような。
「依頼人はどんな人でしたか」
「おや、珍しい。興味でもあるんですか?」
「殺人の依頼をするのが、どんな人か気になっただけです」
そう。
自分と同じ人間を殺して欲しいと頼む愚かな人。
興味があるのはいい事です、とニコニコ笑っている。
本当に今日は機嫌がいいようです、彼は。
「小さくて、かわいらしい少年でしたよ」
「少年……? 男の子ですか」
「はい。機械人形の男の子です。まだ、作られたばかりの。
動きがぎこちないので、すぐ分かりましたよ」
私と同じ、人形が依頼人?
「それは、珍しいですね。人以外が来るなんて」
人以外が、殺人を依頼しにくるなんて。
今までにも、人形が来たことはあったが……
ほとんどは、そのためだけに作られたものだった。
意思を持って来るのは、初めてではないだろうか。
作られたばかりでは、主の傍にいるのが普通だ。
何故来たのですか? と彼に尋ねてみた。
「その子、主を殺されたそうですよ」
「…………主を殺された?」
私達人形にとって、主は壊れても守るもの。
そう、何があっても。
主人が人形を捨てたのならば、別だけれども。
彼は少し眼を伏せていった。
「貴女のように、戦闘用ではなかったのですよ」
戦闘用でないということは、家庭用ということになる。
家事、清掃などを手伝わせる為に作られた人形。
戦闘には、とても不向きなのだろう。
「目の前で、殺されたそうです。とても驚いたでしょうに」
「感情がある人形だったのですか」
それは、さらに珍しい。
歯車戦争以来、人形に感情や自我を与えることは少なくなった。
「それで、代価はどうしたのですか?」
マスターが営む殺し屋の掟。
絶対に仕事は完遂する。その代わり、それ相応の代価を。
それは、金銭だけに留まらない。
殺しに値する、依頼人にとって最も価値があるものを。
「代価は、歯車にしました」
人形の歯車をもらう。つまり、それは死を意味する。
正確には、壊れて動かなくなるという事。
永遠の眠りにつく、という風に表現する人もいる。
主が死んだ後、生きていても価値はないのだろうか。
「それは、その少年が望んだのですか?」
「はい。主と同じ所に埋葬して欲しいと入っていました。
まだ死体はそのままにしてあるそうです」
たいした忠誠心ですね、と彼が呟いた。とても冷たい声で。
その瞳は真冬の湖のように澄んでいて。
何を考えているのかは想像もできない。
恐らくは、事務的に処理しているのだろうが。
それが、普通なのだろう。
こう考えている私の方が妙だ。
自我だけでなく、感情のようなものまで発現してしまいそうだ。
「夜になったら、依頼をお願いしますね。彼は今アトリエで待機しています。後は、これを」
一枚の写真を渡される。
いかにもヤクザというような精悍な顔つきの男が写っていた。
この男が、今夜のターゲットなのだろう。
「そうそう。これも持って行ってくださいね」
そういって、小型の機械を手渡された。
なんとなく、見覚えがあるような気がする。これは……
「通信機です。今回の場所は、少し遠いですからね」
私はそれを服のポケットに入れた。
仕事内容の確認も終了した。時刻は……夕方。
まだ動き出すには、少々早い時間だ。
私は、ふらりと事務所を出て行こうとした。
すると、慌てたようにマスターが言った。
「ルナさん、まさかその服装で行かないですよね?」
――冗談言わないでください。第一、動きづらいです。
「まだ早いので、少し歩いてこようかと」
「散歩ですか、やけに行動的ですね。やはり服装を変えると……
「散歩ではありません。意味もなく歩き回るだけです」
「それを人は散歩というのですよ」
微笑みながら、彼は言った。
とりあえず外に出ようと、事務所の扉を開けた。
いや、正確には、開けたつもりだった。
扉は途中で何かに当たって、止まってしまった。
甲高い金属音が響いた。
「貴女、いったい何をしたんですか……?」
眼を丸くした彼が尋ねてきた。
彼が驚くのは、とても珍しいこと。
今の音は、人間の耳には少しきつい音だったのかもしれない。
「私は別に何もしていません。何かに当たったようです、扉が」
……何に?
扉のノブに手を掛けたまま、動きが止まってしまった。
この後、どう行動すればいいのかが分からない。
固まっていると、半開きの扉から誰かの声がした。
「あの〜すいません、何でも屋ってここでいいんですか?」
「はい、そうですよ。ここで合っています」
我にかえったマスターが扉の方へと歩いていく。
どうやらお客さんだったようだ。
ならば、随分と失礼なことをしたのかもしれない。
しかし、何故金属音がしたのだろうか……
私が一人悶々と考えていると、白く美しい手が扉を開けた。
随分と滑らかな動きだ。
扉の前には、ふわふわとした衣装を纏った少女がいた。
「どうぞ」
私はいつもの習慣で、少女に紅茶を差し出した。
「あ、ありがとうございます。えっと……」
困ったような顔をされてしまった。
「それで、貴女は何の用で来たのですか?」
マスターが少女に尋ねた。立ち直りが早いようだ。
「あたし、雇ってもらえる所を探しているんです」
可憐な少女は、躊躇いがちにそう切り出した。
茶色い瞳に、薄茶色の短い髪。
ピンクのメイド服みたいなものを着ている。
表情がくるくるとよく動いて……かわいらしいというのだろうか。
「どうしてうちへ来たのですか? 求人は出していませんが」
咎めるようにではなく、ゆっくりと促すように。
彼は、人から話を聞きだすのが上手だ。
「ラピスとか、サウスギアとかも行ってみたんですけど……
駄目でした。それで、ここに来てみたんです。街の人が親切な所だって教えてくれて」
ラピスの街は、戦争で半壊してしまった。
今は常に人を求めている状態なのに、珍しいことだ。
この少女に何か問題でもあったのだろうか。
彼は、顎に手を当てて少し考えている。
いきなりだから、困っているのだろうか。
「貴女は……他に行く当てはないのですか」
「行く所がないので、今の状態になってます」
少女は少し俯いてしまった。あまり言いたくなさそうだ。
それを見て、彼がすっと眼を細めた。
何か思いついたのだろうか。
私は、テーブルに脇にずっと立っていた。
「では質問を変えましょう。貴女は、家事は得意ですか?」
「……? えと、お料理とかお掃除とかなら得意です」
それを聞いて彼は微笑した。
「わかりました。では、ここで働いてもらいましょう」
少女の顔が、ぱっと輝いた。
よほど嬉しかったらしい。今にも飛び跳ねそうだ。
「ほ、本当に雇ってもらえるんですかっ」
「ルナさんは、あまり料理が得意ではないですからね」
戦闘用の機械人形に、料理の上手さを求めないでください……
「ありがとうございます〜!」
本当に軽く跳ねている。
危ないですよ、と私が忠告しようとして……間に合わなかった。
テーブルの上の紅茶が彼女に……
「あっ」
掛かった瞬間、バチンと火花が上がった。
『はい?』
私とマスターの声が重なった。
何で、紅茶が掛かって火花が上がるのでしょう。
少女は火花を上げながら、かなり慌てている様子。
中途半端な姿勢のまま、おろおろしている。
「きゃ、またやっちゃった……どうしよう」
そのまま、ソファーに座り込んでしまった。
その様子をじーっと見ていた彼が一言。
「貴女……機械人形だったんですね」
驚いたようにこちらを見る彼女。
「あたし、言ってませんでしたっけ。あ、もしかして……
機械人形はダメとかそういうのですか!?」
全然違う方向で今度は慌て始めた。
私は、驚きながら彼女を見ていた。
こんなにも表情豊かな彼女が、私と同じ機械人形。
そして、彼女が雇われなかった理由もわかった。
ラピスは人形によって壊されたも同然だから、嫌われているのだ。
それにしても、彼女は人間のようだ。
彼女を作った主は、とてもいい人だったのだろう。
私の主が悪いというわけではない。
主は、色々な事を教えようとしてくれていた。
ただ、理解しようとしなかっただけで。
「少し待っていてください。取ってきますから」
そういい残して、彼は二階へと消えて行った。
火花が上がったということは、回線がショートしたのだろう。
交換しておいたほうがいい。
いきなり、くるりと彼女がこちらを向いた。
「あの、何を取りにいったんですか?」
「マスターは、修理の為の道具を取りにいきました」
「修理できる人なんですね、すごいな」
「ちなみに、私も機械人形です」
「そうなんですか、人形仲間ですねっ」
何か謎の言葉を聞いたような気がする。
そんな会話をしていると、彼が戻ってきた。
左手には、工具箱を持っている。久しぶりに見た。
「では、失礼しますね」
彼女の傍らに座り、整備を始めてしまった。
服を着たままの整備は、大変そうだ。
思い出したように彼は言った。
「これからよろしくお願いしますね?
私は、アルフォンス=オーギュストといいます。紅茶を運んできたのが、ルナさんです」
何だか私が悪いような気がしてきました。
「ルナ=クローディアです」
にっこりと微笑みながら彼女が言った。
「アリシア=エルスといいます。よろしくお願いします!」
当分は、賑やかになりそうな気配がした。
「では行ってきます、マスター」
私は事務所をでる。
夕方にどたばたしていたせいで、少し遅くなってしまった。
あの後シアは街の宿屋へ帰っていった。
今回はノエルの街に目標がいるらしい。
渡された写真の裏には、調べ上げた情報が書かれていた。
ちょっとした集団の親玉。
要約すると、そんな感じだ。
空を見上げると満点の星空で。
その傍らには、灰白い三日月が輝いていた。
とても、いい夜だと思う。
ノエルはフェルシオンから、南に数キロ行った場所にある。
人形の私にとって、たいした距離ではなかった。
私は漆黒の闇に紛れて駆ける。
深夜になると、人はほぼいない。
いたとしても、壊れかけの哀れな人形くらいだ。
壊れたモノに興味はない。
私はひたすら走る。
足の歯車が、ギシギシと悲鳴を上げる。
そういえば、最近メンテナンスを怠っていた。
帰ったら、彼にしてもらわなければ。
それだけ考えると、考える事は止めて、ただ走った。
しばらく駆けると、ノエルに着いた。
死んだように眠る街を歩く。
音を立てず、気配を消して、闇のようにひたひたと。
普段よりも周りを警戒しながら進んだ。
あまり出向かない街なので、見つけるのに手間取りそうだった。
しかし、そう長くは掛からなかった。
街外れにある目標の住処には、煌々と明かりが灯っていたからだ。
家に近寄り耳を澄ますと、異常な程に騒がしかった。
おまけに、複数人の声がした。
家の周辺には、酒と思われるガラス瓶が大量に散らばっていた。
おおかた、何かの祝いのようなことでもしているのだろう。
少年の主を殺した祝いだろうか。
さあ、仕事を始めましょう。
私はまず、明かりを消そうとした。
しかし、侵入しようにも、今のままではすぐ気づかれてしまう。
そこで、気を引き付けるために、瓦礫を投げ込むことにした。
窓を遠くから見てみると、幸いに照明も確認できた。
瓦礫を投げるついでに、照明も破壊してしまおう。
力加減を調節して、窓目掛けて瓦礫を投げ込む。
ぱりん、という小気味いい音が聞こえて、一瞬静かになり。
辺りは暗闇に包まれた。
ぎゃあぎゃあと叫び声が聞こえる中、扉を開けて滑り込む。
愛用の獲物を構え、中にいた数人の男を切り裂く。
素早く、急所を狙って。
悲鳴と共に、血がローブに掛かった。
あまり濡れたくはない。
宴が行われていた部屋には目標はいなかった。
探すよりも、待っていた方がよさそうだ。
「誰だッ!おい、誰かいるぞ……」
「暗くてよく見えない……ぐっ」
風を切る音と共に、声が途切れる。
騒ぐ連中を、確実に一撃で葬る。
酔っ払い達が皆息絶えた頃。
「おい、どうした。騒がしいぞ」
他の部屋から、明かりをもった男がやってきた。
私は静かに男の前に進み、声を掛けた。
「こんばんわ。いい夜ですね」
「あ? てめえ誰だ、つーか何でここにいる?」
随分と口の悪い男だ。見た目も汚ければ、中身も汚い。
それに、どうやら酔っているようだ。
早く終らせてしまおう。
ふらつく足を払い、男の上に圧し掛かる。
そのまま喉元に短剣を突きつける。
「あなたを殺しにきました」
「何言ってんだ? てめえなんかに俺が殺せるわけないだろう」
男の低い声と共に、蹴り飛ばされた。
冷たいであろう床に叩きつけられ、間接が軋んだ。
まったく……と呟きながら男は立ち上がった。
「俺も舐められたもんだ。女が殺しにくるなんてな」
どこからか取り出したナイフを構えている。
両方に刃の付いた、殺傷力のありそうなナイフ。
でも、切り裂けるのは人間だけだけれど。
「まぁ、男より女の方がマシだけどなあ」
下卑た笑い声を上げながら、ゆらゆらと揺れる男。
「試してみますか?」
素早く男に近寄り切りこむが、弾かれた。
何回か繰り返してみたが、結果は同じだった。
……少しだけ困った。
どうにも腕の調子が悪い。 うまく動かせない。
男の攻撃にワンテンポ遅れて反応してしまう。
傷を負うことはないが、いつまでたっても埒が明かない。
耳障りな男の声が聞こえる。
「なんだア? 殺しに来たわりには、遅いなあ」
大したことねえな、と笑いながら私を見る。
私は、というと、うっすらを怒りのようなものを覚えていた。
こんなくだらない男に愚弄されるのは耐え難い。
私は爆笑している男に向かって短剣を投げつけた。
無論弾かれてしまうが、それは計算済み。
「油断大敵です」
男の懐に素早く潜り込み、顎に頭突きを食らわした。
「がっ……このやろう!」
硬い金属に頭突きされれば、眩暈ぐらいは起こす。
いくら屈強な男だとしても。
頭を抱えている内に、股間を蹴り上げる。
声のない悲鳴を上げて男は蹲った。
すかさず投げた短剣を拾いあげ、男の首を切り裂いた。
赤い血が大量に吹き上がったが……急所は外してしまった。
本当に、腕の調子はよくないようだ。
男の首に短剣を翳したまま、止める。
「おい……マジで殺るのか」
「それが私の仕事です」
男の顔が一気に青ざめた。
血の下がる音でも聞こえそうなほどに。
「なあ……助けてくれよっ。何でもするからさあ」
誰も彼も命乞いばかり。
他人を殺しておいて、自分は生き延びるつもりなのだ。
うるさいので、もう一度喉を斬ろうとした時だった。
『ルナさん、聞こえますか? 私です』
コートのポケットに入れてあった通信機から、マスターの声が。
片手で取り出し、口に近づける。
「どうしましたマスター?」
『依頼は中止です。戻ってきていいですよ』
依頼が、中止? 何があったのだろうか。
「なにかあったのですか、マスター」
『依頼人が殺されました。依頼は無効です』
少年が殺された。 誰が、殺した?
簡単なこと。ばらばらにして、歯車を壊せばいいだけのこと。
『ルナさん? どうかしましたか』
「いえ、何でもありません。では、帰還します」
『お疲れ様です。帰ったら、メンテナンスしましょうね』
そういって、通信機は切れた。
ならば、もうこの男に用はない。
早く帰らなければ。
私は男から短剣を遠ざけた。
男が素っ頓狂な声を上げた。
「助けてくれるのかっ!?」
「依頼は中止です。あなたにもう用はありません」
私がそういうと、男は脱力した。
別に私が殺さないだけで、ほっておけば死にそうなものだが。
それでも、喜ぶとは不思議だ。
私は男に背を向けて歩き出した。
そのまま家の扉を開けて外に出る。
死に損ないに興味などはない。
家から少し歩いたときだった。
背後から叫び声が聞こえた。
「油断大敵っていうよなあぁッ!?」
意外な速度でナイフが鋭く飛んできた。
短剣を使ってはじき返す。
そして振り返らずに、短剣を背後に投げた。
鈍い音がしたきり、辺りは静寂に包まれた。
「往生際の悪い馬鹿ですね」
私は満点の星空を見上げながら、一人歩く。
急がずに、ゆっくりと。
依頼人の少年は……どうなったのだろうか。
殺されたという事は、壊れているのは確実だ。
主人の傍で眠っているのだろうか。
永遠に終りなき眠りに就いたのだろうか。
――なんだろう、この感情。
はっきりとしなくて、不安定になる。
思い浮かぶのはマスターの事ではなく、主の事。
何故だろうか。
「貴方なら、この感情の意味を教えてくれますか?」
星空に一つ、叶わぬ願いを呟いてみた。
薄暗いアトリエの中。
床にはバラバラになった機械人形が散乱していた。
それを見つめる、男が一人。
散乱する部品の中から、歯車を見つけると、踏み砕いた。
そのまま男はアトリエを出て行った。
外に出ると、男に冷たい風が吹き付けた。
翻るのは、漆黒のコート。
星が照らす夜道を男は歩いていった。
握った手に、拳銃を携えたまま。
back next