リベリオン
ほこりっぽく、さまざまな物が散らばっている部屋。カーテンは隙間なく閉められ、隅はガムテープで貼り付けられている。
かすかに太陽の光が透けて見える。響いているのはノイズの音と心臓の音。
スプリングが見えるベッドの上で、いろあせたぼろ毛布をかぶって膝をかかえる。
部屋にひとつだけあるテレビ画面に映しだされているのは、砂嵐だけ。
普通ならば耳障りなはずのノイズも、今の僕にはひどく心地よく聞こえる。
薄暗い部屋の中で、その音にだけ耳をかたむける。絶え間なく響く自分の心音がわずらわしい。
ちかちかと白黒にうつる画面をただじっと見る。
そうしていると、なにもかもがどうでもよくなってきて、すごく楽になる。
ずうっとそうしていたいくらいに。
けれどそんなちっぽけな僕の願いが叶うことはない。
しっかりと閉めている扉を透かして聞こえてくる音は、下の部屋の音。
くだらないふたりがくだらないことでもめているに違いない。どうせ父さんがまた浮気したんだろう。
あの人は今の母さんには興味がないんだ。もちろん、僕も興味はない。母さんは、年老いてしまったから。
年老いた人には興味がないから、新しくて綺麗な人と浮気をする。
かわいそうだとは思わないけれど、哀れだとは思う。
母さんがいなければ、僕もいなかったのに。それなら、父さんに暴力をふるわれることもないのに。
……やめよう。こんなことを考えても吐き気がするだけだ。
僕は耳を塞いで、毛布をさらに深くかぶる。
何も聞きたくないし、何も見たくない……何も、考えたくない。
ひたすらに閉じこもって、夜が来るのを待っていた。
まどろむんでいるような、つかの間の浅い眠り。時間の感覚は、ない。
深い眠りの後に、すぐに覚めてしまう眠り。
それを破ったのは、耳障りな声と音。部屋の扉を叩く音がうっとおしい。
かぶっていた毛布から顔を少しだけだして、その音に答える。
「何、僕になにか用でもあるの?」
大きな声ではないけれども、静かな部屋の中ではよく響いて聞こえた。
「あのね、晩御飯を持ってきたのよ。扉の前に置いておくからね?」
おずおずとした感じで聞こえるのは、母さんの声。
甘えるような媚びるような、人の機嫌を伺うための声。僕の一番嫌いな声色。
あんな奴の腹から生まれてきた事実なんて、消えてしまえばいいのに。
晩ごはんっていったって、どうせ――
「そう……勝手に置いていけばいいのに。いちいち報告なんかしなくたっていいよ」
「ねぇ悠くん。たまには、部屋からでたらどう? 学校とか行ってみたくならないの」
「トイレとお風呂の時は部屋からでてるでしょ。学校なんて、反吐がでる」
話をしているだけで、吐き気がこみあげてくる。早くどこかへいってしまえ。声なんか聞きたくもない。
「悠くんが行きたくないなら、無理にとはいわないわ。ゆっくり、進んでいきましょう?」
お前は何様のつもりだ。慈悲深い顔や言葉で飾って……聖母様のつもりか?
「僕に構ってる暇があるんだったら、アイツのご機嫌でもとってれば? うるさいんだよね」
そういうと、母さんが静かになった。どうやら諦めたらしい。
遠ざかっていく足音に混ざって、届いた言葉は。
「人がよくしてやってるのに――糞餓鬼が」
低く、まるで呪詛のような言葉だった。ほうら、本性がでたじゃないか。
おとなしく男のケツでも追っかけてればうっとおしくないのにな。
僕が糞餓鬼なら、母さんは雌狐だろう。父さんは屑かな、どうでもいいんだけれど。
そろそろと毛布からでて、扉を開けて運ばれてきたご飯を部屋の中に持っていく。
再び毛布をかぶりなおして、ふたを開けた。
僕のいつもの晩ごはん――ありふれた、コンビニ弁当。幸いなのは、毎日種類が違うこと。
昼は食べたり食べなかったり。食べないと、昼のものがそのまま晩ごはんになる。
それといっしょにくるのは、水の入ったペットボトル。これも恐らく店売りだろう。
母さんの手料理なんてものが晩ごはんだったならば、とっくの昔に僕は死んでいただろう。
食べなれて美味しくもなんともない弁当を、勢いで食べ終える。
ある程度の栄養さえとれるなら、問題はない。
ゴミを袋にいれて縛り、扉の外へと置いておく。勝手に回収されるだろう。
ベッドの上にあぐらをかいて、テレビの電源をいれる。
特に見たい番組があるわけでもないのだが、暇すぎたから。
でたらめに、チャンネルを切り替えていく。チカチカとうつりかわる映像。
ドラマの殺人シーン。手話で行われるニュース番組、幼児向けの番組、くだらないだけのお笑い番組。
げらげらと笑う観客の声、意味もなく騒ぐ子供の声、まるで機械みたいなナレーションの声。
どれを見ても、面白さなどひとかけらも感じられなかった。チャンネルを切り替え続けて最後に映ったのは、心地よいノイズ。
そのままテレビをつけっぱなしにして、目を閉じる。
母さんがゴミを持っていったのだろう、部屋の外でかすかに音がしたけれど、頭をふって音を追い払う。
布団をかぶってまるまり、暗闇とノイズに身をゆだねる。こうしてじっとしていれば、寒くもならないし空腹にもならない。
じりじりと熱を持つあざや傷もたいしたことじゃない。
下の階から聞こえる物音と、二人の声は聞こえないふりをして、眠りについた。
僕は最初、それが夢なのかどうかわからなかった。夢でも現実でも、よくあることだったから。
ただわかっているのは、父さんに僕が殴られているということだけ。いつもどうりに自分の部屋で。
起承転結、そんなものを夢に期待してもしょうがないのだろう。でも、夢の中でまで痛いなんて理不尽だと思った。
自分に都合のいい世界、嫌なことがない景色。それが僕にとっての夢だったから。
父さんの姿はおぼろげで、それなのに痛みは鮮明で。現実と同じように、身体を丸めるようにして大人しくしているだけ。
ひたすら痛みをやりすごそうとしている僕をあざ笑うかのように、もう一人の僕がどこからか眺めていて。
どうしても何もしないのか? じっとしているだけなのか? やりかえす方法なんて、いくらでもあるのに。
気に入らないのなら、壊してしまえばいいのに。ただ見ているだけなんて、臆病者でいくじなしだ。
あぁ……可哀想な僕。
もう一人の僕のけたたましい笑い声が聞こえたような気がして、夢の中でも耳を塞いだ。
夢の中ですら逃げるなんておかしいな……と思いながらも、意識は闇へと落ちていった。
じっとりとした寝汗の不快さで、目が覚めた。そばに置いてある時計を見たけれど、まだ朝の四時。
用を足してからもう一眠りしようと、僕は静かに部屋をでる。階段をそろりそろりと降りて、廊下の突き当たりのトイレへと入る。
途中で居間をのぞいてみたけれど、人がいるような気配はなかった。
大きな音を立てぬように用心しながら水を流し、手を洗って廊下へと戻る。階段を上る途中、何気なく下をのぞいてみた。
特に意味はなくて、なんとなく――誰かに見られているような、そんな気がしたから。
気のせいだろうと思っただけなのに――さっきは閉まっていた居間の扉が、半開きになっていて。そこから、蛇のような眼が僕を見ていた。
それが屑の眼だと頭が理解するよりもはやく、背中を震えが突き抜けていった。好意なんて存在しない視線。
ひたすらに嫌悪と憎悪にまみれた視線を浴びて、僕は急いで駆け上がる。部屋の中へと逃げ込んで、扉に鍵を。僕は布団の中へともぐりこんだ。
なんだあの目は。気持ち悪い、忌まわしい、汚らわしい。ありとあらゆる罵声をあびせても、まだ足りない。嫌ならみなければいいのに、どうして僕を見る?
無視すればいいのに、なぜ痛めつけるんだ。鳥肌と寒気が止まらなかった。布団の中でひたすら耐えていると、うっすらと声が聞こえた。
この家の壁や床はどうしてこんなに薄いんだ。いやらしい雌の声が、こんなにも響く。この音をわざわざグラスを使ってまで聞こうとするのがいるなんて、信じられない。 頭がどうかしているんじゃないだろうか。
でも、二人が獣のように狂っているなら、僕は安全だ。いやなものは聞こえるけれど。それでも、僕のことなんかこれっぽちも考えてはいないだろう。
ずうっと、死ぬまでそうしていればいいのに。好きモノなんだから。不愉快な音に包まれながら、僕は無理やり目を閉じた。
ひたすら、泥のように深くて、夢のない眠りに落ちたかったから。
結局僕は、翌日の夜まで眠り続けていた。寝すぎで痛い頭を振って、布団からはいでる。
起きたばかりだけど、ものすごい空腹感に襲われた。
扉の外の気配に気をつけながら開けると、水のペットボトルだけが置かれていた。
とりあえずはそれを開けて、飲んだ。少しだけ、頭がすっきりしたような気がした。
どうしようか。今日の分の食べ物がない。たぶん、そのまま持っていかれてしまったんだろう。
あの人のことだから、捨てたりはしないだろう。よっぽど腐ったりはしていない限り、また僕の部屋に置くんだろうから。
時計を見ると、時刻は深夜……二人は寝ているだろう。明日まで待つのが一番だけど。いったん意識すると、お腹の虫が騒いで落ち着かなかった。
静かに静かに、僕は自分にそう言い聞かせながら、階段をゆっくりと降りていった。
居間の扉を開けると、蛇のような目を思い出して、身震いをしてしまった。今は、誰もいない。
寝室は二階にあるから、よっぽどじゃないかぎり会わない……会いたくなんかない。
そろりそろりと泥棒のように足音を忍ばせて、冷蔵庫を開ける。思ったとおり、出来合いの弁当が保存されていた。
僕はそれを掴んで、冷蔵庫を閉める。扉の中からもれる光が、わずらわしかった。
静かに廊下にでて、部屋に戻ろうとしたときだった。
何かに首をわしづかみにされて、弁当を床に落とした。ほねばって、かさかさした大きな手。アイツだ。
悲鳴をあげる暇なんてなくて、がむしゃらに暴れる。つかまれた部分が締まって苦しい。
両手でアイツの手をひっかいた。爪がはがれたって、骨が折れたってかまわない。あんな屑に殺されてたまるものか。
指がしびれるくらいに暴れて、なんとかアイツの手から抜け出せた。
僕は後ろも見ずに、階段を駆け上がった――下から聞こえてくるのは、怒鳴り散らす男の声。
自分の部屋へと飛び込むと、すぐ鍵を掛けた。どうせすぐ壊されてしまうだろう。でも、時間稼ぎくらいにはなってくれるかもしれないから。
アイツは酔っ払ってる。怒鳴りながら、階段を一段一段のぼってくる。きしむ床の音が、すぐ側にあるような錯覚。
このままじゃ危ない。酒に溺れてるから。どうすればいい? 僕が明日も生きていられる方法。
早鐘のように打つ鼓動を感じながら、かんがえる、考える。どうすればいいかなんてわかりきっている。
僕の命が危ないのなら、防衛するだけ……アイツを消してしまえばいいだけ。どうしていままで実行しなかったんだろうか?
警察に捕まるのが嫌だから? それともあの屑が怖いから……くだらないだけの能無し男の、何を怖がる必要がある。
部屋の中。ずいぶんと使っていない学生カバンの中から、筆箱をだして。中に入っているハサミを取り出す。今初めて、感謝するよ。
世間体や親なんかどうでもいい。僕はただ面倒くさかっただけ。問いただされるんだろう? どうしてこんな事をしたのかって。
きまぐれです、といえば満足するのだろうか。頭のおかしい子だと収容されておしまいだろうか。いや、これもどうでもいいこと。
空っぽの押入れの扉を、少しだけあけておく。役にたたなそうだけど……ぼろ毛布も丸めて投げ込んだ。
今なら理由はじゅうぶんだ。「正当防衛」とでものたまっておけばいい。後のことなんて知るものか。僕はアイツらが消えれば満足さ。
ハサミを片手に握り締めたまま、ベッドの下の隙間にもぐりこんだ。
このときばかりは、小柄でよかったと思う。
息を殺していると、アイツがやってきた。扉がけたたましく鳴っている。やっぱり鍵なんて意味がなかった。
「ここにいるのはわかってんだぞぉ、引きこもりよぅ」
饐えたにおい。体臭なんか酒の匂いなのか、どちらにせよ気持ち悪いものでしかない。
今の僕は、目だけらんらんと光ってるんじゃないだろうか。
それぐらいの勢いで、アイツの動きを見る。
右に左にふらふらとよろめきながら、僕を探している。そのままどこかへ行ってしまえ。いや、そんなの無理さ。
ぐるぐるとめぐる思考。濁ったように見えるアイツの目が、押入れの扉の隙間を見つけて。にたり、と笑った。
僕は狂気を握り締めたまま、今か今かとその瞬間を待った。みぃつけた。気味悪く押入れを覗き込むアイツ。
そうして前かがみになった瞬間。僕はベッドの下から勢い良く転がり出た。
「お前なんかいらない」
ゆっくりとした動きで、アイツが僕を見ようと振り返る前に。僕は全力でアイツに飛びかかって。叫びながら凶器をアイツの首へと突き刺した。
悲鳴が聞こえたかどうか、よくわからない。少し錆びていたそれはなかなか意味をなさなかったのだけど。
繰り返し繰り返し、えぐるように捻り込むように。赤が飛び散ろうが、折れそうな位に力を込めて。
「お前なんか死ねばいいんだ。僕はいらない。顔も見たくない。お前の遺伝子が入っているのかと思うと、吐き気が止まらない。
酒に溺れているだけ。若い女としているだけ。誰だっていいんだろう? ねぇ、どうしてここにいるんだよ」
急激に、部屋のなかに臭いが充満していく。甘さなんてない、ただ濃密なだけの臭い。それは僕に気持ち悪さしかもたらさない。
じたばたともがくアイツの叫びがうるさい。それに負けないように声を張り上げる。
「お前たちは僕が邪魔なんだろう? だったらなんで産んだんだよ! いらないなら作らなければよかったじゃないか。
邪魔なのは僕だって同じなんだよ――早く死ね」
いてもたってもいられなくて。空いている手で引っかいた。ただ目の前の男を殺すことだけを考えて。
何枚か爪がはがれたのかもしれない。指にまとわりつくものは、どちらのものなのかわからない。
ひたすらに刺して。ひたすらにえぐって。振りほどかれないようにしがみついて。ただそればかりを数分繰り返した。
十分もたったかどうか。やっと、アイツが倒れた。面白いくらいに横倒しになった。うめき声ひとつ、もう漏らしやしない。
肩で息を付きながら、自分の両手を見る。凶器はさっき滑り落ちて床に転がっている。この血塗れた手のなかにあるものはなんだろう。
ただ殺したいという純粋な殺意かな。
二度三度、握り拳を作っていたら、なんだかとても可笑しくなって。アイツも僕も。とてつもなく可笑しく思えて僕は笑った。
普段よりもいくらかトーンの高い自分の声。嘲笑うかのような音がもう一つ混じっている……それは僕の気のせいかな。
なぁ、見ているかい。夢の中であったもうひとりの僕。アイツはもういない。僕が殺したんだよ。ちゃんと動いただろう?
あとひとり。そうすれば僕は満足さ。そのあとのことなんてどうでもいい。まずは、目の前のことをやらないといけない。
何度か深呼吸をしてから。僕はテレビをつけた。いつもの見慣れた、ノイズが映る画面。さっきの笑い声もまるでノイズみたいだった。
目を閉じて耳から入る音に自分を重ねる。とても心が落ち着いて、指先の痛みなんて吹っ飛んだ。
まぶたを開いてもちかちかするのは、きっとノイズのせいだろう。ちょうど、床に落ちた凶器を拾い上げたときだった。
下の階から、耳障りな声が聞こえた――
あとすこし。もう一度だけやったなら眠ってしまおう。もう誰も嫌な奴はいないんだから。
夢もみないくらいに、ぐっすりと眠れるだろう。
「さようなら?」
床に転がる骸になんとなくそう言葉をこぼして。一度だけ、ぎゅっと手の中の物を握り締めてから。
僕はゆっくりと、きしむ音を響かせながら階段を降りていった。
反逆を終わらせるために。
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