六夜




 その日は、いつもと少しだけ違う日だった。
 事務所へ降りていくと、マスターの姿がなかった。
 シアは事務所の床を磨いていたのだが。
「あ、おはようございます〜」
「……おはようございます」
 気が付けばシアはいつも掃除をしている気がする。
 そんなに汚れてはいないはずなのだが。
 だが、今はシアのことはどうでもいい。
「マスターはどこに?」
「アル様は、用事があるらしいですよ。すぐ戻るみたいですけど」
 床から顔を上げてシアが言った。
 彼が昼間から出かけるのは珍しい。彼は基本的に夜型だ。
 何か重要な仕事の情報でもあったのだろうか。
 彼が自分でいった以上、私には何もやることがない。
 ……私は今、何をすればいいのだろうか。
 シアに尋ねてみるも、ほとんど終わりだといわれてしまった。
 いつまでも階段付近に立っていては、邪魔になってしまう。
 とりあえず、本棚から数冊の本を取り出し、読むことにした。
 ソファーへ移動し、深く腰掛けてみた。
 基本的な一般常識は、主に教えていただいたことがある。
 だから、その他の知識はほとんど必要としていなかった。
 ましてや、誰かが創作した不安定なものなど。
 そんな本を読もうとしている私が不思議だった。
 表紙を開いて、目次を読み出したときだった。
 視界の隅に、こちらに歩いてくるシアの姿が映った。
 妙に、ギクシャクとした動きだ。
 どうやらソファーに座るらしいので、私は少しずれた。
 そして予想道理、シアが隣に座った。座ったのはいいのだが……
 何故か、私の方をじっと見ている。
 何も悪いことなどしていないけれど、居心地が悪くなる。
 開きかけのページに手を掛けたまま止まっていると。
 シアが、ゆっくりと口を開いた。
「幸せですか?」
「今……何といいました?」
「ルナちゃんは、幸せですかって聞いたんですよ」
 私は、何故そんなことを聞かれるのかがわからなかった。
 その質問をする意味があるのだろうか。
 内容は理解できるのだが、幸せがわからないから、答えられない。
「人形が、幸せになれると思うのですか?」
 とりあえず、知っている範囲で答えてみた。
「だから〜可能かどうかじゃなくて、ルナちゃんが、幸せかどうか」
「私には、幸せというものが、どんなものかわかりません」
「ここ、嫌なんですか?」
「そういうわけではありません」
 驚いたように聞き返されてしまった。
 どうやらシアは、全体ではなく、私個人の幸せを聞いているらしい。
 事務所が嫌でも、マスターが嫌でもない。
 ただ、何を幸せと呼ぶのかがわからないのだ。
 幸せの基準、幸福の定義、私は、それを知らない。
「シアは、幸せなのですか?」
 私に聞くぐらいだ、シアはどうなのだろうか。
 うっすらと予感を感じながらも、尋ねてみた。
 シアは、柔らかく微笑みながらいった。
「あたしは幸せですよ」
 澄んだ硝子だまの瞳で、迷いもなく言い切った。
 少し、羨ましく思えるかもしれない。
「ここに来て、アル様やルナちゃんに会うことができましたから」
 シアにとって、彼は雇い主。
 仕事をもらえたのは、嬉しいことなのだろうが……
 私や彼に会えたことが、幸せへと、どう繋がるのだろう。
「ルナちゃんは、どうなんですか? ここに、いられること」
「マスターに仕えることができたのは、良かったと思っています」
 居場所を与えてくれて。存在理由をも用意してくれたから。
「でも、それだけです」
「それだけってなんですか?」
 小首を傾げられてしまった。
「良いことには違いありません。ただ、それだけです」
「でも、感謝はしているんですよね? 会えてよかったって」
「感謝はしています。会えてよかったのかは、わかりませんが」
 ルナちゃんって、少し頭硬いんですねと、シアがいった。
 先ほどから、じれったそうにしている。
「良かったと思ってるから、感謝ができるんですよ」
 彼に会って、私は確実に変わった。何が、とは確定できないけれど。
 その変化は、良いことなのだろうか。
 私がそういうと、彼女はおかしそうに笑った。
「誰かに会えて良かったと思うのは、幸せじゃないんですか?」
「ですから、その幸せがわからないと、さっきから……」
「どんなものかは、自分で決めるものですよ?」
 この、良かったと思う感情が、幸せ?
「その人にとっての幸せの形は違いますから
 断言はできないんですけど……少なくとも、それが、
 あたしにとっての幸せだと認識しています」
 私は、迷っていた。
 彼女のいっていることが、正しいのだろうか。
 それとも、正しいなんてもの自体が、存在しないのだろうか。
 不確かで、移り気な感情が幸せだとしたら。
 私はもう、答えを知っているのかもしれない。
 カタチのない何かが浮き彫りになりそうで。
 そんな私がシアにできたことは。精一杯の反論。
 論にすら達していない、言葉の連なり。
「私達は、人ではありませんよ」
 ――私は、機械人形。間違っても、人ではない。
 それは唯一確かで、変わらない事実。
「でも、人形はヒトガタ。人の形を模したものですよ」
「あくまでも、真似ただけです」
「人とは、違うと思ってるんですね」
「体の構造からして、です」
 人は生身。血液が流れていて、絶えず心臓が鼓動を刻んでいる。
 人形は、無数の軋む歯車と、回路が連なるばかり。
「じゃあ、自我とかは、どうです?」
「根本的に、人のそれとは違います、感情も」
「何故あると思います?」
「それは知りません」
 さっきからどうも、シアに質問されてばかりの気がする。
 感情や自我などは、歯車に宿っている。人形に宿るわけではない。
「仮に違うとしても、ある時点で、人には近いですよ」
「近づいているだけでしょう」
「む〜。どうにも否定的ですね、ルナちゃん」
 何を認めたくないんですか? とさらに尋ねられた。
 真っ直ぐな硝子の瞳で、シアは私を見ている。
 私はその視線を、見返すことができるのだろうか。
 感情のようなものが、芽生えつつある。それは事実。
 私は、機械人形。そんなものは必要がない。
 だが、それは誰が決めたのだろう。
 答えは簡単だ。私が、勝手にそう思い込んでいるだけ。
 主も、マスターも、シアも、誰にも強制されてはいない。
 これは、私の自我が邪魔をしているだけ。
 ああ。どうしてそんなもの、芽生えてしまったのだろう。 
 私からすっと視線を外して、シアが呟いた。
「あたしには、ルナちゃんがとっても、人間らしく見えます」
 私が? シアは、この私が人間らしいというのか。
 それこそ、何かの間違いではないのだろうか。
「私には……あなたのほうが、よっぽど人間らしく見えますよ」
 ほんの些細なことでも、よく動く表情。
 迷いがない、考え方。私などより、よっぽど似ている。
 私の言葉を聞いて、シアは少しだけ、哀しそうに微笑んだ。
「あたしは、そういう風に作られていますから」
 私は、思わず瞬きをしてしまった。
 シアは普段、自分が人形であることをあまり言わないからだ。
「迷わない、躊躇わない、悩まない。それは人じゃないです。
 でも私は、そういう風に作られました」
 だから……とシアは続けた。
「どんなに似ていても、あたしは、最後まで人形なんです」
 躊躇わないのは、人間ではないと。
 これは、シアにとって、自分を否定しているようなもの。
 それなのに、口にした。
「主からの命令とかって、ありますか?」
 いつものような雰囲気で、シアが聞いてきた。
 主からの、命令。
 これは、命令ではないのかもしれないけれど。
「幸せになってほしいと、いわれました」
 いい人だったんですね、とシアは静かにいう。
 シアを作った主は、何をいったのだろうか。
「あなたは?」
「逆らわないことです」
 何故か微笑みながら、シアは話す。
「感情も、心も、自由も与えてあげる。好きなところへ行けばいい。
 その代わり、必要なときには、必ず従うこと」
「今までに、そういうことはあったのですか?」
 ありましたよ、とシアはいう。
 まるで、他愛のないことを話すように。
「居場所は知らないはずなんですけどね〜? 呼び出されたりします。
 不思議ですよねえ。探知機でもついてるんですかね?」
 からからと、無機質に笑いながら。
 私は、命令というよりは、契約のようだと思った。
 自由と引き換えの契約。
 何処へでも……など嘘ではないか。
 何があろうとも、最後には自分の元へと帰ってくる。
 自由を与えて、自由を奪って、縛り付ける。
 それなのに。
 シアは、自分を幸せだといっている。
 どれが、真実なのだろうか。
 部屋の中を、沈黙が支配した。
 なんとも、微妙な空気が辺りに漂う。
 私がシアに何か話しかけようとしたとき。
「ただいま戻りました」
 扉を開けて、彼が入ってきた。
「お帰りなさい〜アル様」
 彼の方を向いてにっこり笑うシアは、明るい。
「おや、珍しいですね。一緒にソファーにいるなんて。
 何か話でもしていたのですか?」
「大したことじゃないですよ〜」
 シアの笑顔は、本物なのだろうか。嘘なのだろうか。
 ……私には、やはり理解できない。
「アル様も帰ってきましたし、あたしもそろそろ帰ります」
 今度は私に向かってシアがいう。
 気が付けば、もうじき、夜になろうとしている。
 そんなに長い時間、話し込んでいたのだろうか。
「お疲れ様でした、シアさん」
「お疲れ様でした〜」
 彼に手を振ってから、シアは事務所を出て行った。
 私がソファーから立ち上がると、彼が座った。
 今日一日気になっていたことを尋ねてみる。
「マスター、今日は何処へ行っていたのですか?」
「はい? ああ。これを調達しに行っていたのですよ」
 そういいながら、テーブルの上に紙袋を置いた。
 重い、金属がぶつかる音がした。
 中を除いてみると、大小さまざまな、何かの部品が入っていた。
 彼の方を見ると、懐から銃を取り出していた。
 なるほど、銃の部品ということらしい。
 ……彼は、常に銃を携帯しているのだろうか。
「もうじき使いますからね。整備しておかないと」
 そういってから、彼は薄く微笑した。見覚えのある笑みは。
 あの男を殺したときと同じ微笑。……冷たい。
「何かあったのですか?」
「前に、鼠がいるといいましたよね。退治開始ですよ」
 手際よく部品を交換しながら、質問に答えてくれた。
 つまりは、邪魔者を始末するということ。
「この銃の弾はね、特別製なんですよ。人形だって、撃ち抜けます」
 楽しそうにいいながら、くすりと笑う彼は。
 まるで、獲物を見つけた獣のようで。
 相手は誰なのかと尋ねてみても、教えてはくれなかった。
「それはまだ秘密ですよ。急がずとも、時間の問題です」
 ならば、私が知るべきは、仕事の場所のみ。
「何処へ行けばいいですか」
「察しがいいですね。ここに書いている場所へ」
 そういって、一枚の小さな紙を渡された。
 そこには、スラムの住所が書いてあった。
 彼の話では、そこにネズミが現れるらしい。
「分かりました。マスターも行くのですか?」
 ええ、と彼は頷いた。
「仇名すものは、駆除するのが当然でしょう?」

 その夜は、満月だった。
 淡く光る月が、厚い雲の隙間から顔を覗かせていた。
 珍しく、曇っている。どんよりとした黒い雲。
 私は、仕事着でスラムに来ていた。
 後からマスターが来るといっていたが、始末するのは私だろう。
 余計な手間を掛けさせるわけにはいかない。
 警戒しながら、相手が現れるのを待つ。
 彼の話では、そろそろ現れるはずなのだが……
 カツンと、背後で足音がした。
 ゆっくりと振り返ったその先にいたのは。
「あれえ、ルナちゃん、どうしたんですか?」
「――シア?」
「危ないですよお? 夜のスラムって。早く帰った方がいいですよ」
 相変わらずにこにこと笑っているシアがいた。
 ふわふわとした、ピンク色のメイド服を身に付けている。
 シアが、何故ここにいる? 
 この辺りに、宿泊施設はなかったはずだ。
「あなたこそ、何をしているんですか?」
「あたしは、ちょっとした私用ですよ」
 それよりも、とシアは続けた。
「ここに、誰かいませんでした? 機械人形以外で」
「私が来たときには、誰もいませんでした」
 こんな夜中に人探し。どういった私用なのだろうか。
「ルナちゃんは何してるんですか?」
「私も……私用です」
 そうとしか、いいようがない気がする。
 話すわけにはいかないだろう。
 この場をどうしようか迷っていると、別の足音が暗闇から聞こえた。
「おや、ナイスタイミングですね、二人とも」
 話している間に、彼が到着したようだ。
 いつものように、黒づくめの服装。
 ベルトのホルスターには、整備したての拳銃が入っているのだろう。
 シアは訝しげな顔をして、彼のことを見ている。
「マスター、何故彼女がここにいるのですか」
「……私言いませんでしたか? 今日は鼠退治ですよ」
 確かに、それは先ほども聞いた。邪魔者を、消すのだと。
「それとシアと何の関係が……」
 ふと、妙な違和感に私は気づいた。
 何かがおかしい。何だろう、この感覚は。
 彼は少し呆れながら話す。
「まだ気づかないんですか? 調子、悪いのですかね」
 違う。私は、違和感の正体を知っている。
 始末しに来た場所に、シアがいる。
 ならば、答えは一つ。
 シアが、ネズミだということになる。
 けれど……
 シアの方を、ちらりと見た。彼女は、無表情だった。
 彼はそんな私を見ながら、楽しそうにいった。
「私からの依頼です、ルナさん。彼女を壊してください」
「マスター、それはどういう……」
「どうも何もないでしょう。彼女が鼠、それだけですよ」
 そうでしょう? とシアに向けて問いかけた。
「アル様……だったんですね」
 いつになく、硬い表情。機械人形らしい、表情。
「こそこそと、嗅ぎ回っていたようですが――」
 目障りなんですよ、と突き放すように彼はいう。
 シアが、スパイだった。
 それは、この現状を見れば、確かなこと。
 なのに、何故私はこんなにも、動揺しているのだろう。
「シア、あなたは最初からそのつもりで?」
 私は、シアに問いかけた。
 返ってきたのは、静かな言葉。
「あたし、主には逆らえないって、話しましたよね?」 
 シアの主は、彼を殺すように、差し向けられたのか。
 それとも、いつかのように、急に呼び出されたのか――
 いや、最後のは、希望的観測にすぎない。
「主からの命令です。ここに来る者を、殺せと」
 いつのまにやら、シアの手には、小さなナイフが握られていた。
「どうしたんですか、ルナさん? 早く、始末してください」
「マスター……」
 私は、動けずにいた。そんな私を見る彼の瞳は、冷たい。
「まさか、できないとでも?」
 何故私は、武器を構えられない?
「どうしたんですか、ルナちゃん。あたしは、敵ですよ?」
 シアが、鋭く研がれたナイフを、私に向けた。
 主の敵は、始末するだけ。
 それなのに、私は何をしているのだろう。
「……やる気がなさそうですね、ルナさん」
 動けない私の前に、彼が立った。
「情でも移ったんですかね。……まったく」
 ため息を吐きながら、銃を取り出す。
「待って……ください、マスター」
「なんですか?」
「壊さないと、いけないのですか」
 シアを、というのを忘れてしまったが、伝わるだろう。
 けれど、返事に救いはなかった。
「当然でしょう。野放しにしておいたら、邪魔です。
 危険因子は、早めに取り除くのがベストですから」
 彼の口の端には、うっすらと笑みが浮かんでいる。
「貴女は、あちら側につくのですか?」
「そういうわけではありませんが……」
「同じ事でしょう。敵を、殺さないのですから」
 私は、何も言い返すことができなかった。
 これでは、これでは彼を……
「私は裏切られたみたいですねえ? どうやら」
 私は、彼に仕えていたはずなのに。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 彼が、銃に弾丸を込めた。
「貴女がやらないのなら、私自ら、手を下すだけです」
「銃くらいじゃあ、あたしは壊せませんよ、アル様?」
「おや、余裕ですね、シアさん。……間違えました。裏切り者?」
 その言葉を聞いて、シアの顔が歪んだ。
 とても哀しそうな、やりきれなさそうな表情に。
 なのに、私は何もできなくて、動くことすら。
 ただ、見ているだけ――
 空気が、動いた。
 シアが彼の胸元に飛び込もうとした寸前。
 四発の銃声が、スラムに響いた。
 銃声の後に立っていたのは、彼。
 足元に座り込んでいたのは、シア。
 崩れるように座り込んでいるシアに、破損は見当たらない。
 よく見ると、両腕、両足に弾痕が見えた。
「あれ……、なんで、動かないんだろ」
 本人が、一番驚いたような顔をしていた。
「貴女、最近動きづらいとは思いませんでしたか?」
「動き?」
「歯車に、細工をしたんですよ。何個かは、抜いてあります」
「なっ……あれは、戻したはずでは?」
「あれ以外にも、まだあったという事ですよ」
 くすくすと笑いながら、私に彼はいった。
 あれは、空耳ではなかったということ。
 もしかしたら、気づけたかもしれないということ。
 動けない彼女に、ゆったりとした足取りで彼は近づく。
「さあ、これで終わりですね?」
「……強かったんですね、アル様」
「伊達に年はくっていませんからね」
 シアの服を切り裂き、胴体部分を開く。
 そこには、むき出しの歯車が、狙ってくれといわんばかりに。
「何か、言い残すことはありますか?」
「……あたし、こんな形になったけれど。
 二人に会えたことは、後悔してないですから」
 小さいけれど、力強い声でシアがそう告げた。
 そして、ふいっと。一瞬、私に視線を向けた。
 何か、言いたいことが……
「では、お疲れ様でした」
 彼はそう言い放つと、オレンジ色をした歯車を打ち抜いた。
 躊躇わずに、一発で。
 シアは――壊れてしまった。
 倒れた残骸には見向きもせずに、私の方へと彼が歩いてくる。
「ぼうっとして、どうかしましたか?
 何か、面白いものでも、ありましたか?」
「……申し訳……」
「次は、貴女の番ですよ」
 ああ、やはり。
 次は、私が壊される。
 なんだろう、この感情は。畏怖? それとも恐怖だろうか。 
 体が勝手に、じりじりと後ずさりをしてしまった。
「私は……裏切らないで、といったはずなんですけどね。
 忘れてしまいましたか?」
 違う。それをいったのは、彼ではない。主だ。
 でも、今の主は彼だ。ならば、同じことかもしれない。
 私に裏切る気がなくとも、結果的にはこうなってしまったから。
 言い逃れはできないのだろう。
 コートのポケットから銃弾を取り出し、新たに込める。
「これは、特別製のやつです。面倒ですからね」
 銃弾を装填すると、真っ直ぐに私へと銃口を向けた。
「貴女も……何かありますか?」
 私。私が、最後にマスターに言い残すこと。
 こんな私が、何をいうことができるのだろう。
 しばらく考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「ありがとうございました」
 それを聞くと、マスターの顔が、少しだけ歪んだ。
「では、さようなら」
 銃声が、夜に響き渡った。
 
 私は、たぶん仰向けに倒れていた。
 手足が動かないので、どうやら、撃ち抜かれたらしい。
 まだ、歯車は、動いているらしい。
 さらに、視界が暗闇に包まれていた。
 聴覚だけは、まだ機能しているようだた。
 マスターの靴が、瓦礫を踏みしだいているだろう音が聞こえた。
 壊すのなら、早く壊してほしかった。
 ああ、主。ごめんなさい。
 今なら、私は主のいっていたことが、理解できます。
 私は今、悲しいです。
 最後に主に会えなかったからか、壊されたからかは、わからない。
 私は、やっぱり幸せになどなれませんでした。
 けれど、幸せの意味が、今ならば理解できるでしょう。
 私は、あの事務所で生活していて。
 シアや、マスターと暮らしていて。
 それが、私の幸せだったのでしょう。
 できれば、そのままでいたかったです。
 主、私を作ってくださって、ありがとうございます。
 マスター、私を壊してくれて、ありがとうございます。
 見逃されるよりは、壊されたほうがいい。
「裏切らないで、と言ったのに」
 これで。これで、いいのです。
 私は壊れて、消えていきます。
 感情のある機械人形などは、いてはいけません。
 いても、悲しみが増えるだけです。
 ……懐かしい声が、聞こえる気がする。
「もしかしたら、僕が裏切ったのかもしれないね、ルナ」
 何かが、顔に当たっているような、音がした。
 水滴が、落ちたような。
 雨が、降ってきたのだろうか。
 それとも、誰かが泣いているのだろうか。
 きっと、それは私の勘違い。
 だから、主の声が聞こえたのも――きっと、気のせい。
 そこで、私の意識は途切れた。
 

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