雪幻夜




 雪がふわふわと降る駅前で、沙耶香は恋人と待ち合わせをしていた。
 淡い粉雪は、綺麗で、掌に触れると一瞬で溶けてしまった。
 早く……雪那来ないかなぁ。
 待ち合わせ時間より三十分も早く来てしまったせいか、まだ彼の姿はなかった。
 基本的に彼は、約束の時間丁度に来るタイプ。
 早く来るということもなければ、遅れてくるということも、めったにない。
 少し、先走りすぎてしまったかもしれない。
 十二月で、さらに雪が降っているとなると、結構寒かった。
 自分の着ているコートが薄手のせいかもしれない。

 お昼を過ぎたばかりの駅前は、酷く込み合っていた。
 仕事を中断して食事をしているサラリーマン。
 休みを利用して、遊びに来た学生。
 街路樹を見てみると、夜になると眩しく輝くであろう、イルミネーションが飾られていた。
 きっと、夜になるとこの場所は、多くの人で賑やかになるんだろう。
 かくいう私も雪那も、冬休みを利用してデートをしにきたのだ。
 彼が好きなところでいい、というので、この駅前に待ち合わせをした。
 なんてことない、少しだけ飾り付けされた普通の駅前。
 でも、ここのデパートは、飲食店を含め、かなりの数のお店があるから。
 私は、買い物と写真撮影がとびきり好きなの。
 あわよくば、何か買ってもらおうという魂胆もあるけれど。
 雪那は、無駄なものは買ってくれないけど……
 本当に欲しいものは、買ってくれるから。たとえば、カメラとか。
 結構値段がするのに、普通にプレゼントしてくれた。
 だから、彼はとても優しい人なんだ。

 携帯電話を見てみると、約束の時間まで、後五分くらいだった。
 周りを見るのにも飽きて、私は一本の樹に近づいてみた。
 その一本は、どうやらクリスマス用に飾りつけがされていた。
 色とりどりの電球と、緑や黒のコードが巻きついている。
 ステッキの形や天使のオーナメントも飾られていた。
 樹の一番上には、少し大きめの星が乗せられていた。
 妙にニコニコ笑顔の、サンタの人形もあった。
 私は小さいころ、このサンタの飾りが嫌いだった。
 毎年ツリーの飾り付けをするたびに、怯えていたような気がする。
 みんなは笑っていて、かわいいと言っていたのだけど……
 私は、その笑顔が怖かったのだ。
 不気味なほど笑顔で、何もかも知っていそうで。
 サンタは子供達にプレゼントを配るという話があった。
 サンタが担いでいる、白く大きな袋。
 でも、私はこんな風に思っていた。
 欲しいものが手に入ったら、大切なものを失くしてしまうんじゃないかって。
 それなら、プレゼントなんていらないと、ずっと思っていた。

 私がぼうっと樹を眺めていると、不意に服が引っ張られた。
「おい、こんな所で何してるんだ?」
 覚えのある声に振り向くと、厚手のコートを着た雪那がいた。
 首にはマフラーを巻いていて、吐く息は白かった。
「え? ちょっとサンタ見てただけだよ」
 そういうと、彼は少し驚いたような顔をした。
「あれ……お前って、サンタ嫌いじゃなかったか」
「まだ言うの。それは、子供のころの話だってば」
 今だって子供じゃないか、といいながら微かに笑う雪那。
「笑わないでよね。 もう、結構待ってたんだからね」
「お前が早く来すぎただけだろう?」
 判ってることだけど、なんだか一人張り切ってるみたいで、恥ずかしい……
 顔が赤くなったのは寒さのせいにするとして、私は雪那の手を引いた。
「そろそろ、中入らない? 冷えちゃったよ」
「ん、まぁとりあえず入って、何か食べるか」
 私の冷えた手を、彼の暖かい手が包み込むように握った。
 そのまま手を繋ぎながら、デパートへと向かった。

 ちょっとした飲食店でパスタを食べてから、買い物を始めた。
 かわいい雑貨屋さんで立ち止まり、アクセサリー屋で、ウィンドウに張り付き。
 少し疲れたら、軽く甘いものを食べて。電気屋で、最新のカメラを物色したり。
 雪那は、電気屋は普通来ないだろ……とか。
 甘いものばっかり食べると、太るぞ、とかぶつぶつ言っていた。
 その割には、私が一目惚れしたテディベアを買ってくれた。
 ふかふかとした、等身大の大きなテディベア。
 設置されているベンチに座りながら、撫でてみる。
 ぬいぐるみ好きにはたまらないさわり心地だった。
「やっぱりかわいいな。ありがとうね、雪那」
「別にいいけどな。毎年俺はテディベアを買っている気がするんだが」
「そういえばそうだね。よく種類があるよね」
 私の部屋には、たくさんのテディベアがある。半分くらいは、雪那に買ってもらったもの。
 本音をいうと、等身大のぬいぐるみって、かなり高いもの。
 だから、誕生日に便乗して彼に買ってもらっているんだよね。
「今年も誕生日プレゼント買ってもらえて、よかった」
「あれ、誕生日って、確かイヴだよな?」
「うん。クリスマスイヴの日。覚えやすいでしょ」
「あと一日遅ければ、クリスマスだったのにな」
 薄く微笑しながら、雪那がいう。
「ということは、来週が誕生日か」
「そうなるね」
「じゃあ、その時に渡すか」
「何を?」
「誕生日プレゼント、今年はちゃんと別に用意してあるんだ」
「おお、すごいね」
 今までは、今回みたいにぬいぐるみとかで終わりだったのに。
 別に用意してあるなんて、なんだかすごく嬉しい。
「でも、二十五日でしょ?」
「ああ」
 私の誕生日はイヴだから、クリスマスにまとめて祝うことが多い。
 だから、毎年プレゼントをもらうのも、二十五日になる。
 雪那からのプレゼント。それは、とても素敵なものなんだろうな。
 だって、彼が選んだんだから。
「楽しみにしてるね」
「ああ。ぬいぐるみよりは、いいものだぞ」
「ぬいぐるみだって、かわいいよ」
 他愛のない会話が楽しかった。
 でも、ふと携帯を見てみると、時間はもう夜になろうとしていて。
 帰りたくない、と駄々を捏ねて見たりしたのだけど。
 また会えるだろう、と雪那に言われてしまって。
 結局は、彼が私の家まで送ることになった。
 手を繋ぎながら、取り留めのない会話をしながら、歩く。
 駅へついて、電車へ乗っていても、手は繋いだまま。
 この時間が、ずっと続けばいいのになと思う。
 雪は、うっすらと白く積もっていた。

 私は自分の部屋でアルバムを見ていた。
 ベッドの上で、雪那に買ってもらった、大きなテディベアを抱いて。
 アルバムノ中にあるのは、学校の部活の写真、馬鹿騒ぎをしている写真。
 私と雪那は、写真部で出会った。
 クラスが違っていたから、それまでは知らなかったのだけれど。
 お互いが撮る写真の雰囲気がとてもよく似ていて。
 気が付いたら、恋仲にまでなっていた。
 机の上の写真立てを見る。
 恥ずかしそうにそっぽを向いた、雪那が写っている。
 私が撮った写真。
 カメラを向けた途端、横を向いてしまったのだ。
 机の周りには、コルクボードもぶら下げてある。
 蝶のピンで、二人の写真が止めてある。
 笑い会っている写真、抱きしめられている写真。
 友人からよく写真を撮るのがうまいと言われるけど。
 雪那の方が、写真を撮る腕は、私よりもずっとある。
 その時、一瞬一瞬を、写真の中に閉じ込めてしまう。
 笑い声も、写真から聞こえてきそうなくらいに。
 変な話だけど、写真から、幸せの香りを感じるような。
 それほどに、綺麗な写真。
 雪那の隣に私がいれることは、すごく嬉しい。
 昔、写真を撮ると、魂が取られてしまうといわれていたらしいけど。
 彼の写真なら、本当だと信じてしまいそうになる。
 幸せな瞬間を、ずっと写真に閉じ込めて。
 年をとっても、二人でそれを懐かしむことができる。
 私たちもそんな風になれたら、素敵だと思う。
 その夜は、かなり夜遅くまでアルバムを眺めていた。
 
 友人たちと遊んだりしている内に、あっという間に誕生日はやってきた。
 普通は、胸躍る日なのだろうけど、私はそうならないと思っていた。
 だって、祝ってもらうのは、次の日だもの。
 いつもよりもほんの少しだけ豪華なご飯を食べて、自分の部屋へと篭る。
 本を読んだり、写真を眺めたりはしてみるけれど、落ち着かない。
 どうも、自分の誕生日は平気でも、イヴは落ち着かないみたい。
 ベッドに飛び込んで、ティディベアに抱きつく。暖かい気がする。
 部屋は寒いけれども、ぬいぐるみはふかふかだ。
「はあ……雪那に会いたいな」
 ここ最近、お互いに何かと忙しくて、全然会っていない。
 明日になれば会えるのはわかっているけれど、待ち遠しくて、もどかしい。
 思えば思うほど、そわそわとしてしまう。
 メールでもしようかな……
 そう思って、携帯を開く。
 送信者を設定して、本文を打とうとした時。
 聞きなれた、着信メロディが聞こえた。
 驚いて画面を見ると、着信が来たようだった。
 名前を見ると――雪那。
 喜びがこみ上げてきて、反射的に通話ボタンを押した。
「もしもし、雪那?」
「ああ。今、ちょっと出てこれるか?」
「今?」
 時計を見ると、もうじき零時になろうとしている。
 私の親は厳しい人ではないから理由を言えば、外出できるけど……
 どうしたのだろう。今まで、こんなことはなかった。
 誕生日の日に、電話が来るなんて。しかも、夜中に。
 嬉しい反面、不安も覚えた。
「別に大丈夫だけど……どうかしたの?」
「いや、ちょっと急用でな。それに、会いたい」
「うん。私も会いたいけど、大丈夫?」
「ん、何が?」
 だって、さっきから、雪那の声が少し変だから。
 風邪を引いているとかじゃなくて、凍えているような。
 少し、くぐもっているような声。
「雪那の声、少し震えているから」
 ああ……、というため息にも似た声が聞こえて。
 心配が、少し大きくなったのだけれど。
「ちょっと、寒いだけだ。それに、雪も降ってるからな」
 雪? 私は携帯を耳に当てたまま、窓のカーテンを開ける。
 大粒の、柔らかな淡い雪が降っていた。
 どうりで、寒いわけだ。
「本当に降ってるね」
「何だ、気づいてなかったのか。外は寒いぞ」
「雪那って、雪の降る日に生まれたんだよね?」
「そんなこと、覚えてたのか」
 驚いたような、小さな声が聞こえた。
 春になるすこし前の季節。
 一晩だけ、雪が降ったんだって。
 その日に、雪那が生まれたらしい。
 だから、雪那。
 刹那に降った雪。
 すごく、綺麗な名前だと思った。
 彼が私に話してくれたことなら、何でも覚えている。
 大好きな人のことなら、覚えていたいと思うのは、当たり前。
 大好きだから、会いに行かないと。
「じゃあ、今から出るけど、何処に行けばいいの?」
「家の近くに、小さな公園があったよな?」
「あそこね。わかった」
 私は身支度を整えて、家を出た。
 小さな鞄を持っていくのも、忘れずに。

 大粒で柔らかい雪が、ゆっくりと、たくさん降ってくる。
 こういうのを、ぼたん雪というのだろうか。
 外は夜中ということもあって、かなり寒かった。
 息が白く凍りつく。
 雪の降る夜道を、一人で歩く。
 アスファルトの地面には、雪が落ちて、うっすらと積もっていく。
 寒いけれども、綺麗な夜。
 待ち合わせをした公園は、家から少し歩いたところにある。
 昼間はよく、近所の子供達が遊んでいる場所だ。
 公園につくと、雪那が待っていた。
 コートのポケットに手を入れて、すごく寒そうにしている。
「ごめん雪那、待った?」
「いや、大丈夫」
 近づいてみるとわかったけれど、心なしか顔も青白かった。
 もしかして、本当は随分待たせてしまったんじゃないか。
 会えて嬉しいはずなのに、今日は不安になってばかりだ。
「それで、今日はどうしたの、いきなり?」
「沙耶香、誕生日だよな、今日」
 確かに、今日は私の誕生日だけれど……
「あれ? でも、明日って言ってた気がするんだけど」
「何だ、明日がいいのか?」
 少しだけ、雪那が笑った。
 彼が笑ったのを見て、少しだけ、安心した。
 さっきまで、すごく辛そうに見えたから。
「なんてな。明日は、急用が出来たから……会えなくなっただけ。どうせなら、今日の方がいいだろう?」
「うん。誕生日当日にもらうなんて、初めてだね」
 そうだな、といいながら、雪那はポケットに手を入れた。
 次に手を外に出したときには、ラッピングされた、小さな箱が手にされていた。
 薄いピンクのリボンが結んであって、かわいい。
「ほら、手出して」
「これ何?」
「いいから」
 彼の指が、リボンを解いて、箱を開けた。
 そして、何かを私の指にはめた。
「これ……」
 私は嬉しくて、言葉が出てこなかった。いいたいことは、たくさんあったのに。
 雪那が私に指にはめたものは、かわいい指輪。
 中心には、四葉のクローバーが施されていた。
 ピンクのクローバーだから、何かの宝石なのかもしれない。
 しばらく、私は指輪をじっと見つめていた。
 やっと出てきた言葉は。
「――ありがとう」
 月並みな、何の飾りもない言葉だったけれど。
 きっと、私の気持ちは十分にこもっていたはず。
 雪那を見ると、とても優しく微笑んでいた。
 冷たい私の手を包みながら、雪那はいった。
「それが、俺の気持ち」
「雪那の……?」
「そう。俺が、沙耶香のことを愛してるっていう、証」
「でも、そんなものなくても、わかってるよ?」
 雪那は頷きながら、続ける。
「でも、形にして残しておいた方が、嬉しいだろ?
 俺がいなくなっても、愛していたということは、これで消えない」
「私は、雪那のこと忘れたりしないよ?」
 わかってる、とゆっくりという雪那。
 ――どうしよう。泣きたいくらいに、嬉しい。
 体は寒いのに、心はとても温かい。
 思わず、私は、雪那に抱きついていた。
「ん……どうした、沙耶香?」
「何だかもう、嬉しすぎて。どうしていいのかわからないよ」
 雪那の手が、頭をゆっくりと撫でてくれた。
「お前は、そのままでいればいいだろ」
「うん……」
 そのまましばらく、私は雪那に抱きついていた。
 少し経ってから。
「そろそろ、帰ろうか?」
 本当は、このままいつまでも抱きついていたかったけれど……風邪を引いてしまいそうで。
 しぶしぶ、雪那から離れた。
 あ、帰る前に、やることがあったのを思い出した。
「ねえ、雪那。写真、撮ろう?」
「写真?」
 雪那が少し、眉をひそめた。
「うん、写真。今この瞬間の幸せを、閉じ込めたくて」
「……そうだな。どうやって撮る?」
「私が、撮るよ。横に並んででいいよね?」
 無言で私を抱き寄せる雪那。
 私は肩に掛けていた小さな鞄から、愛用のデジタルカメラを取り出す。
 雪那にくっついたまま、カメラを自分の方に向ける。
 何度か撮ったことはあるから、感覚で覚えている。
「じゃあ……笑って?」
 雪那が微笑んでいるのを確認して、私はシャッターを押した。
 フラッシュがたかれて、レンズが動いた。
 これで、写真が撮れたはず。
 終ったのを確認すると、雪那は私から離れた。
「そうだ。沙耶香、その写真……」
「何?」
「写真は、明日の夜まで見ないでくれないか?」
 明日の夜まで、見ちゃいけないのかな。
「どうして? 今すぐ見たいんだけど……」
「そうだな、我慢してから見た方が、楽しいだろ」
「そういうものかな、写真って」
「そういうものだろ、たぶん」
 訳がわからないけれど、雪那がいうなら。
 この写真は、明日の夜までは、見ないようにしようと思った。
 雪那が、真っ直ぐに私を見た。
「送ってかなくて、平気か?」
「うん。すぐ近くだから、一人でも大丈夫」
 そうか……、とふわりと彼は微笑んだ。
 優しいのだけれど、何故か儚くて。
 私は、雪那がこのまま消えてしまうんじゃないかと思った。
 わけもなく、焦燥感が胸にこみ上げて。
「ねえ、雪那」
「なんだ」
「また……、明日会おうね?」
 少し考える仕草をした後。
「そうだな。……また、会えるといいな」
「――雪那?」
「いや、なんでもない。ほら、そろそろ帰ろう」
 指輪を外して、元の箱に戻した。
「それじゃあね、雪那」
「ああ。おやすみ、沙耶香」
 おやすみ、と返事をしてから、私は歩き出した。
 少し歩き出してから、雪那が私を呼び止めた。
「どうしたの?」
「俺は、ずっとお前の傍にいるからな」
「うん。わかってるよ、ありがとう」
「……何度も悪いな。じゃあ」
 そういうと雪那も反対方向へと歩き出した。
 雪は、ただ静かに降り続いていた。
 

 私が雪那の訃報を聞いたのは、次の日の朝だった。
 余所見運転をしていた車に轢かれて、即死。
 それが、雪那の最後だったのだと。
 警察の話によると、事故は、昨日の夕方に起こったらしい。
 私は、電話を聞いてから、部屋に引きこもっていた。
 飲まず食わずで、夜になっても、まだ部屋の中に。
 声が出なくなって、吐き気がするくらいに、泣いた。
 これ以上はないくらいに泣いて、泣いて、まだ泣いて。
 眩暈がする頃には、涙も枯れ果てていた。
 信じられない。
 雪那が――死んだなんて。
 他人の空似じゃないのかと何度も思った。
 でも、電話が掛かってきたのは、雪那のお母さんからで。
 お母さんも、その目で雪那だって確認したといっていた。
 即死だったから、苦しまないで死ねただけ、よかったといっていた。
 私は……とても悲しくて。
 だって、雪那は確かにここにいたのに。
 私と笑ったり、一緒に出かけたり、写真を撮ったりしたのに。
 世界中の何処を探しても、もういないなんて。
 雪那の微笑みも、暖かさも、言葉も。
 まだ胸の中に、鮮やかに残っているのに。
 今はただ、それが苦しくて。
 いっそ、会わなければよかったと、思ったりもした。
 でも、雪那がいない自分なんて、想像できなくて、余計に寂しくなった。
 部屋の中を見てみても、雪那にもらったものばかりで。
 見るだけで、胸がいっぱいになって。
 私はベッドの上で膝を抱えて、目を瞑っていた。
 昨日の夜、私は確かに雪那に会った。
 きっと、彼は私に会いに来てくれたのだろう。彼は、優しい人だから。
 お別れを言いに来てくれたから、こんなにも辛いのだけど。
 頭の中で思い出すのは、雪那の言葉ばかり。
 どれも優しくて、愛しくて、痛くて。
 それでも、ずっと覚えていたくて。
 瞼を開いて、はめられた指輪を見る。
 ……雪那からの、最後のプレゼント。
 まだまだ一緒にしたいことは、たくさんあったのに。
 それがもうできないなんて。
 枯れたはずの涙が、また零れそうになった。
 ふと、雪那の言葉を思い出した。
『写真は、明日の夜まで見ないでくれないか?』
 鞄からデジタルカメラを取り出して――止まった。
 いま、この写真を見て、どうするのだろう。
 悲しさが、増えるだけなのに。
 でも、やっぱり、雪那がいたことを、確認したくて。
 私は、カメラのスイッチを入れた。
 観賞モードにして、昨日の写真を探す。
 何度かボタンを押した後に、昨日の写真を見つけた。
「雪那――」
 写真に写った雪那は、いつものように微笑んでいた。
 その隣にいる私も、幸せそうに微笑んでいて。
 幸せな二人が、そこに確かにいた。
 ほら、雪那は、確かにここにいるのに。
 やっぱり、悲しくなった。でも……
 でも、忘れたくはないと思った。
 写真には、人の魂が宿るというけれど。 
 それならば、雪那の魂も、ほんの少しでも、この中にあるのだろうか。
 そう、信じたくなった。
 だって、彼が私にいったから。
 ずっと、傍にいるって。
 私は、彼の言葉を信じたい。
 見えなくても、触れられなくても、きっと私の傍にいる。
 傍にいて、いつものように笑って、見守ってくれているんだ。
 だから、私は前を向かなきゃ。
 私は、一生雪那のことを忘れないだろう。
 彼との約束でもあるし、忘れたくなんてないから。
 そして、いつか私が、誰かと結婚したら。
 笑って、懐かしんで、その人に話そう。

「私の、素敵な初恋の人だよって」
  


                        back