"カミサマ、シンプサマ"
"わたしの" "ぼくの"
『罪をきいてください――』
それは、父親の浮気が原因だった。たった一度きりの浮気。でも母さんから見たら、これ以上ない裏切り。
後にも先にもない、その一回の浮気を母さんは許すことができなかった。
二人が離婚をしたのは、僕らが幼稚園の頃。浮気がばれてから、あっというまの出来事だった。
僕と妹は、母さんに引き取ってもらえるのだとばかり思っていた。
父さんは、新しい人のところへいったから。それなのに。
『いらない』
それはなんてことのないある朝。幼稚園へ行こうとした僕と妹に吐かれた言葉。あんたたちなんて、いらないとそれは続いて。
たった一人の男がいなくなっただけで、母さんは僕らを捨てた。無言でバッグをもって、妹の手を引いて幼稚園へ向かった。
途中で、妹が泣き出した。泣きじゃくる妹を連れて、ただ歩いた。
母の言葉を伝えると、先生がひどく慌てふためいていたのを覚えている。
その後、僕らは孤児院へと預けられた。そこには同じように、捨てられたり、死んだり、行き場のない子供がたくさんいた。
けれど僕らはなかなか馴染むことができなくて、いつも妹の手を引いて散歩ばかりしていた。
孤児院の隣には、小さな教会があった。その年で信心深い子供なんていなかったから、いつも神父さましかいなかった。
みすぼらしいけれどもどこか綺麗なその場所は、僕らのお気に入りの場所になった。
十字架を模した鈍い飾り。くすんだステンドガラスに差した光は、ところどころ欠けたマリア様の像へと。
妹がよくマリア様を見ては、母さんみたいだねといっていた。そうしたら神父さまが、マリア様はみんなのお母様なのですよ、と微笑みながら話してくれたのを今でも覚えている。
神父さまは外国の人だったけれど、とても日本語が上手だった。金色の綺麗な髪と青い目は宝石みたいで。とても優しくて子供が好きみたいで、たくさんのおとぎ話をしてくれた。
妹が、父さんみたいだといっていた。
そんな教会の片隅には、四角く囲われた部屋が一つあった。ザンゲ室というんですよ、と神父さまから聞いた。ときおり大人が出入りしていた。
「お祈りをするの?」
そう聞いた僕に、神父さまはゆるく首を振りながら、答えてくれた。
「悪いことをしてしまったときに、謝りにくる場所なのですよ」
「どうしてあやまるの? 何かいいことでもあるの?」
少し舌足らずに妹が聞いて。
「神様が許してくださるんですよ」
その言葉が珍しくて。僕らは何度も口の中で、かみさま、と繰り返した。その後も、僕らはザンゲについて神父さまを質問攻めにした記憶がある。
そうして僕らは、ザンゲのまねごとをするようになった。
孤児院の庭に落ちている枝を結んで作った、かさかさしてる十字架。話をするほう、聞くほうは交代でやった。他愛のない、子供の遊びだった。
妹が小さい手を組んで、僕に向かって話す。僕は神父さまの役で。
「今日はきづかずに、アリさんを踏み潰してしまいました」
ごめんなさい、という妹に僕はいう。
「かみさまは優しいから、きっと許してくれるよ」
僕がお決まりの言葉をいうと、妹はうれしそうにいつも微笑んだ。彼女が笑ってくれるなら、何度だって僕はいってあげた。
言葉ひとつで笑ってくれるのなら、なんて簡単なんだろう。
「ねぇ、今度はおにいちゃんの番だよ」
そう妹に促されて、僕も両手を組んだ。特にあやまることなんて、たぶんない。あるとしたら……
「ぼくのかわいい妹の、泣き虫が治りますように」
「お兄ちゃん! それザンゲじゃないでしょ、お願いじゃないっ」
ぷう、と妹がほほを膨らませて怒るから、僕は笑う。ごめん、ごめんと。
「ぼくはアリさんふんでないから……とくに見当たらなくて」
「うそだあ。一匹くらいふんでるよう。神父さまに怒られるよ?」
「神様も神父さまも優しいから平気だよ」
ずるーいという妹といっしょに笑って。そんな、ゆっくりとした時間だった。
一度だけ、神父さまに見つかってしまったことがあった。教会の裏で遊んでいたときのこと。
はりぼての十字架を前に両手を合わせている僕らをみて、神父さまはすごく困った顔をしていたのを覚えている。
妹とふたりで、ひたすらごめんなさいとあやまった。悪いことだとは思っていなかったけれど。
神父さまがあまりにも困った顔をしていたから。
結局、神父さまは笑って許してくれた。ぼくらの頭を優しくなでてくれた。
「あんまり、人前でやってはいけませんよ」
『はい、神父さま。わかりました』
僕らは声をそろえて答えた。
そのとき僕は、これがザンゲなのだと、強く感じていたのを覚えている。
学校に行く年齢になったころ、僕らは里親に引き取られた。孤児院がなくなってしまうから。
引き取られる直前まで、僕らは何度も何度も教会に足を運んだ。くすんだステンドグラスさえ、見れなくなると思うと寂しかった。
妹なんて、神父さまに抱きついて泣いていた。神父さまはちょっと困っていた。
彼はきっと今もどこかの教会で、祈りを捧げているのだろう。
僕らを引き取ってくれた人達はとても親切だった。他人の子供なのに、とてもよくしてくれた。
妹はやっぱりすぐになついて、お父さんお母さんと呼んでいた。僕はというと、母さんと呼ぶのが恥ずかしい。父さんは別に平気なのだけれど。
きっと、妹ほど無邪気ではないからかもしれない。
学校だって、高校までちゃんと通わせてくれた。それでも、どこか申し訳なさを感じていた……
入学してすぐに僕らはバイトを始めた。少しずつ少しずつお金を貯めて、小さなアパートの一室を借りた。今はそこに妹と二人で住んでいる。
親達は、学費だけでもださせてほしいといってくれて。二人でしきりに感謝した。ああ、本当になんて優しいんだろうか。僕らの母さんとは大違いだ。
よくある、たった一度の浮気が許せなかった。そのくせ、父さんがいなくなっただけで、僕らを捨てて。
でもそのおかげで教会へもいけたし、今の親とも出会えたのだから、いいのかもしれない。
二人だけの部屋で、今も懺悔は続いている。
百円均一で買ったちゃちなロザリオ。黒のハギレで作ったベール。妹が罪を告白する子羊。僕はそれを聞いて許す神父の役。
昔はよく交代したものだけれど、今はほとんど変わらない。部屋の中で静かに呟かれる懺悔は、僕らの生活の一部となっていた。
「神様、神父様。わたしの罪をきいてください」
胸にかけたロザリオを両手で握り締めて、妹が呟く。小さい頃はおてんばで泣き虫だったのに。今はすっかり年頃になり、とても綺麗になった。
「同級生の子を、少しねたましく思ってしまいました。これはわたしの勝手な感情です」
「どうしてそう思ったの?」
僕がそう聞くと、妹はほほを少し赤らめて、ちょっとだけ目線を横へとずらした。その様子は、兄の僕が見ても可愛くていとおしい。
「それは……羨ましいって、思ったからです」
「何を?」
そう尋ねる僕の顔は、自然とゆるんでいく。もういい年齢だから。大体は予想がつく。
「神父様は、そんなにいじわるじゃないでしょう? からかわないで」
あぁ。ちょっと怒ると、頬をふくらませてそっぽを向くのは、昔からの癖だ。
「はは。ごめんごめん。神様はとても懐が深くてお優しい。許してくださるでしょう」
いつかと同じように、ごめんと僕はあやまる。悪いなんて、ちっとも思っちゃいないのだけれど。
「いつもわたしばっかり。兄さんもたまには懺悔したら? 溜まってるでしょう?」
すねていたかと思うと、悪戯っぽい目つきでそういう。いつのまにかすっかり女性だ。
「僕は、そんなに欲深くないもの。そんなにないんだよ」
妹は素直なのに、僕はいつも嘘ばっかり。喉から手がでてしまうくらいに欲しいものがあるくせに。
何があったって、絶対に手放したくないものがあるくせに。
「そんなにってことは、あるんじゃない。子羊さん、いってちょうだい」
そういって彼女が僕の首へとロザリオをむりやり掛けた。学生がして似合うものじゃないと思った。
「仕方がないなあ。僕は可愛い妹に、悪い虫がつかないかどうか心配です」
「それじゃあただのお悩み相談じゃない。まったく……」
困った顔をされたけれど、こればっかりは本当なんだからいいだろう。
幼い頃も今も、変わらず十字架に向かって懺悔をする僕ら。いつまでも子供のままじゃあない。
そこに神様なんていやしない。祈りは宙へと散るだけ。罪なんて本当はないのにそれでも告白をする。許しなんていらない。
本当に罪があるならば、軽々しく懺悔なんでできないと思うのは間違っているだろうか。
どんなものでも、それが本当の罪だというのなら、許しなどないようなものじゃないのか。
生活の一部でも、僕らにとってはただのおままごとにすぎない。形ばかりの儀式。きっと、心のよりどころが欲しいだけ。
親に捨てられて――神様にまで捨てられたなんて信じたくはないから。勝手な思い込みだから、許してほしいなんていわない。
ひっそりと胸に秘めたこの想いも、たぶん罪なのだろう。吐き出してしまったなら、壊れてしまうもろい罪。
神様の許しが届く前に、儚く消えてしまう。だから僕はたとえ仮初の遊びでも、その想いは懺悔しない。
妹がたまにいう。神様や神父様も懺悔をすればいいのにね……と。
神父様だって、誰もいないときに告白しているのかもしれない。神様は、わからないけれど。
これから先。僕らはずっとこの遊びをやめないだろう。
僕らは死ぬまでに、幾度懺悔という告白を繰り返すのだろうか。
無邪気に笑う妹を見ながら、今日も僕は胸の中で一人、呟く。
神様、神父様。
抱いてはいけない想いをもってしまった、哀れな子羊の。
僕の罪をきいてください。
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