その日は、朝から雨が降っていた。
普段よりも少し遅く目覚めた私は、部屋で着替えをしていた。
窓の外は大雨で、人気がなく静かだった。
テーブルの上を見ると、書類が置いてあった。
恐らくは、今夜の仕事の内容だろう。
マスターが部屋に置きにくるなど珍しい。
軽く書類に眼を通してから、階段を降りていった。
階段も終わりに差し掛かり、ソファーがちらりと見えた時。
悲鳴のような声と共に、重いものが倒れるような音がした。
朝から騒がしい……何かあったのでしょうか。
残りの階段を飛び降りると、事務所に顔を出した。
そこには、倒れているシアと、割れた食器が散乱していた。
さらに、それを遠めに眺めているマスターがいた。
とりあえず私は彼に挨拶をすることにした。
この状況を見ればなんとなく察しはつく。
「おはようございます、マスター」
「ああ、お早う御座います、ルナさん」
「おはようございます……ルナちゃん」
倒れたままのシアからも返事が返ってきた。
私は倒れているシアに近寄り、引っ張り起こした。
ありがとうございます、と言って食器の掃除を始めたシア。
遠い眼をしている彼に問いかけてみる。
「何があったのですか?」
「シアさんが、食器を割ってしまったのですよ」
「転んだのですか?」
「ええ。何もない所で上手に」
それは嫌味なのだろうか。
機械人形自体は重いから、あんなにも凄い音がしたのだろう。
何もないところで転ぶのも凄いことだとは思う。
派手な音のわりにどこも破損していないのは、やはり人形らしい。
てきぱきと破片を片付けたシアがこちらに寄ってきた。
彼に一応報告をしているようだ。
「終りました〜割れるなんて、びっくりしちゃいましたよ」
「私は貴女が転んだ事に驚きましたよ。メンテナンスしましょうか?」
「いえいえ、そっちには問題ないと思いますから、大丈夫ですよ」
結構な枚数の皿が割れていたようだが、それはいいのだろうか。
「割れた食器は平気なのですか?」
「ああ、大丈夫ですよ。私個人の物で、おもてなし用ではないですから」
「あう……すいませんでした」
とにかく、次は転ばないようにした方がいいと思います。
今回よりも大事な物が壊れてしまいそうな気がした。
「じゃあ、あたしは掃除してきますね……調理場の」
そういってシアは調理場に引っ込んでしまった。
もしかして、皿を片付けただけで、まだ捨ててないのだろうか。
なんというか、仕事熱心だと思う。
私は、とりあえす彼に尋ねることがあったのを思いました。
「マスター、今は何かやることがありますか?」
「そうですねえ。依頼はありましたけど、夜で結構ですから……ないですね」
「そうですか。最近、昼は何もない気がします」
「いいじゃないですか。平和という事ですよ」
「戦争の後など、そんなものなのでしょうか」
「そういうものですよ、ルナさん」
さて、どうしようか。
まだ昼にもなっていない時間帯。
依頼は夜行うのが普通だから……やることが何もない。
シアは掃除をまだしているようだし、彼はソファーで寛いでいる。
どうやら書類仕事も終わってしまったらしい。
散歩……なども雨では行く気も起こらない。
「マスター」
「はい、何ですか?」
「やることがありません」
聞くなり彼は苦笑した。
おかしいことは言ってないはずなのだが。
「落ち着きがないですねえ。本でも読んだらどうですか?」
そういって細い指が本棚を指した。
正直あまり書物に興味はないのだが……仕方がない。
ソファーに座って本を読もうとした。
すると、事務所の扉をノックする音が聞こえた。
読んでいた本から顔をあげ彼が扉を見た。
「おや、お客様ですかね」
「あたしが出ます〜」
調理場からシアが出てきて、扉へと向かった。
今度は、どちらの依頼なのだろうか。
シアが、扉を開けて応対している。
「え、えと、お客様ですか……」
「ここの……用……」
何故か小声でひそひそと話をしている。
しばらくすると、シアが戻ってきた。
「お客様でしたか?」
「はっ!? いえ、ちょっと違うみたいですよ?」
「シアの知り合いなのですか?」
「ええ? あ、あたしの知り合いなんかじゃないですよ?」
何だか妙に否定しているような気がします。
「それで、誰だったんですか?」
「アル様に、用があると言っていましたよ?」
「私、ですか?」
彼の、知り合い? 今まで尋ねてきたことはない。
彼を見ると、何か考えているような顔をしていた。
「お客様はいま何処です?」
「えと、入り口にいますよ。扉の前辺りにいます」
ソファーから立ち上がると、彼は扉へと向かった。
私のいる位置からは、彼の姿しか見えない。
「お客様ですか? 私に用というのは……貴方」
途中で、彼の言葉が止まった。
やはり、知り合いだったのだろうか。
しばらくの沈黙の後、男が中に入ってきた。
その横には、彼がいる。
「久しぶりだな、アル。ここがお前の仕事場か」
「まったく。貴方はいつも突然なんですから……」
男の横では彼がため息をついている。
「ええと、マスター、こちらの方はいったい……?」
「ああ。こいつは私の知り合いです、一応」
ひどいな、とぼそりと男が呟いた。
何か、面倒な事が起こりそうな気がした。
どうぞ、とシアが男に紅茶を差し出した。
男は無言で受け取り、会釈した。
なんだかさっきから、シアの行動に落ち着きがない気がする。
男は紅茶を飲むと、いい香りだな、と言った。
ぎこちなく、ありがとうございます、とシアは言った。
……妙だ。しかし、今問題なのはそこではないだろう。
「それで、マスター、こちらの方は?」
「ああ。そうでした。うっかり忘れてしまう所でしたよ。一応紹介しておいた方がいいでしょう」
なんだかマスターにしては、ぞんざいな扱いをしているような。
「彼は、ルイです。学生時代の、まあ知り合いです」
「ルイ様、ですか?」
「正確には、ルクロディ=エルフィスだがな」
「承知いたしました」
どうやらマスターが教えてくださったルイというのは、通称らしい。
丁寧にも自分自身でフルネームを名乗った。
私は男の方を見た。
淡い金色の髪で、ショートカット。
瞳の色は、珍しい紫色だ。左目には眼帯をしている。怪我でもしたのだろうか。
茶色のコートを身に着けている。少し変わったデザインだ。
見た目では、大体マスターと同じくらいだろうか。
失礼に値しない程度に男をみていると、シアがぽつりといった。
「あの、アル様……今日はあと何かありますか?」
「いいえ、ないですよ。何か用事でもあるのですか?」
「ちょっと用があるの思い出したので……失礼しますね?」
そういうとシアは、すぐさま事務所を出て行ってしまった。
そんなにも急ぎの用なのだろうか。
「逃げるように帰ったな」
男がそう漏らした。確かに、凄いスピードではあったが。
「それにしても、アル様か? いいご身分だな」
「うるさいですよ、ルイ」
「事実だろう?」
「それで、貴方はいったい何の用です? この場所は教えていなかったはずですが」
「様子を見に来ただけだ。仕事を始めたなら教えてくれればいいものを」
「別に貴方に教える必要はないでしょう?」
「いいじゃないか。俺は退屈しているんだから」
話をしているマスターの顔はうっとおしそうだ。
知り合いのわりには、随分と仲がよろしくないようだが……
それにしても……と男が言う。
「相変わらず、女顔だな」
「貴方に言われたくありませんよ、ストーカー男」
なんだろうか、この険悪な雰囲気は。
お互いに言っていることが危険な気がする。
ストーカー男というのも気になるが……
どうしたらいいかわからなかったので、話題を振ってみることにした。
「あの、ルイ様?」
「なんだ」
「マスターの学生時代は、どのような感じだったのですか?」
マスターの顔が、きょとんとしたものになった。
私がこんなことを尋ねるとは思いもしなかったのだろう。
私はマスターのことを何も知らないから。知っておいて、損はないかもしれない。
「アルの学生時代……そうだな。変わった奴だったぞ」
「ルイ、余計な事を話さないでください。ルナさんも、なんでそんな事聞くのですか」
「単なる興味です」
「はっ。いい機械人形じゃないか、なあ? アル」
「まったく……貴方達は」
「面白いな。いいだろう、話してやるよ」
そういって男は話し出した。
「こいつはな、昔っから人間嫌いだったよ」
「潔癖症ですか?」
「まあ、そんなものか。女も男も、とにかく人が嫌いだった。孤立してたな」
「仕方ないでしょう。嫌なものは嫌なんですから」
「こんな顔だが女にはよく話しかけられていた」
「悉く無視しましたけどね」
昔からマスターは潔癖症だったのか。というよりは人間嫌い。
「しかも、昔はこいつ、自分の事を僕と言っていた」
「僕、ですか?」
「ああ。気が付いたら私になってるな。いつからだ?」
「さあ? 戦争後じゃないですかね? 処世術ですよ」
学生時代は、僕といっていたらしい。マスターなら、似合う気もするが。
主といい、マスターといい、昔の人は僕という人が多かったのだろうか。
「学校とは、どのようなものだったのですか?」
「ん? 機械人形の製作法などを学ぶ所だ。専門学だな」
「教諭は下衆でしたけど、内容は役に立ちましたよ」
誰が教えても、いいものは変わらないということなのだろうか。
「お二人は、いつから知り合いになったのですか?」
「私は知り合いとしか認めていませんからね?」
「ひどいな。俺がこいつに付きまとってたからな」
「付きまとう……ですか」
「そうですよ。貴方と来たら毎日毎日――大した用もないのにくっついてきて。
目障りで仕方ありませんでしたよ。まるでストーカーのようでした」
さっきのストーカーと言われていたのは、それが原因らしい。
「どうして追いかけていたのですか?」
「珍しい奴がいると思ったからな。興味が沸いた」
「だからといって、付き纏わないでくださいよ。はっきり言って迷惑です」
「お前が逃げるからいけないんだろうが」
「無言で追いかけられたら、誰だって逃げます。ねえ、ルナさん?」
「訳がわからないので、とりあえず逃げますね」
「なんだ。主に忠実な人形だな、つまらない」
「人の人形を侮辱しないでくれると嬉しいですね」
話が毎回ずれていくのは、私の気のせいなのだろうか。
ああ、そういえば、と男は思い出したように手を打った。
「人形といえば、アレがあったな」
「なんです、いきなり」
「俺の左目」
男の、左眼? 眼帯に包まれているが、何かあったのだろうか。
マスターは苦虫を噛み潰したような顔をしている。
あまり思い出したくないことなのだろうか。
「確か、何かの課題で人形を作れというのがあってな」
「機械人形を、ですか?」
「はい。人形の出来が評価に繋がるのですよ」
「そうそう。必死になって作った覚えがある」
「ええ、貴方のせいでぶち壊しになりましたけどね?」
「まだ根に持ってるのか。あの時は悪かったって」
「よくも完膚なきまでに壊してくれましたね」
「お前だってやり返しただろう」
「当たり前です」
「あの……よろしければ詳細を」
話が二人の間だけで進んでいる。
何が起こったのかいまいちよく把握できていない。置いてかれている。
「そうだったな。課題で、人形を作っていたんだよ、とにかく」
じろりとマスターが男を睨み付けている。
殺意すら感じられそうな程に、鋭い目つき。
「それで、どうしたのですか?」
「俺が、アルの人形を壊した」
「ルイ様が、マスターの人形を?」
そうですよ、と会話にマスターが加わった。
「私の作った人形を、修復不可能な程に、ルイが壊したんです」
人の作った人形を壊す。それは……恐ろしい気がする。
作り手にとって、製作物には愛着があるという。
それを壊すとは、この男は凄いと思う。
「何故、壊したのですか、ルイ様?」
「明確な理由はない。強いて言えば、嫉妬だろう」
「嫉妬? ですか」
「こいつの方が、腕も頭も俺よりよかったからな、羨ましかったんだろう」
「嫉妬なんてくだらない理由で、人形を壊された私の身にもなってくださいよ」
「いいじゃないか。お前だって結局は俺にしただろう」
「やられたら、やりかえすのが信条ですから」
「貴方が壊しすぎるのがいけないのですよ。無事だったのは、歯車ぐらいでしたよ」
「確か、色付きだったな」
「ええ。紅の歯車でした」
紅い歯車。寄寓にも、その壊された人形は、私と同じ色の歯車だったらしい。
だが、それよりも気になることが。
「それで、何かあったのですか?」
ああ、と男が紅茶を飲みながら言う。
「大いにあったな。あれは忘れられないぞ」
「…………」
無言のマスターが怖いのですが……何があったのでしょう。
「俺はその後、こいつに呼び出されてな。放課後に、特別教室にな。
そこで、何があったと思う?」
「怒られたのではないですか」
「まあ、怒られるだけの方が正直マシだな」
すっとマスターの方を見ながら男は続けた。
「アルは、俺の左目を抉ったんだ」
「――っ、左目を、ですか?」
「ああ。その指で、綺麗に抉り取ってたよ」
無意識の内に男の眼帯を見てしまう。
眼帯の下には、空洞が広がっているのだろう。
「あれは、痛かったぞ」
「当たり前です。痛みを感じなければ、化け物じゃないですか」
ぶすっとした顔でマスターは言う。
昔から、マスターなりのルールがあったようだ。
「それで……その後は?」
「当然問題になってな。こいつは退学にさせられたよ」
「元々、興味などはなかったですからね、清清しましたよ」
それなのに、とマスターはため息をついた。
「ルイときたら、何故か追っかけてきましてね。学校を退学してまで」
なんというか、本当にストーカーのような男だ。
ストーカーというのは、粘着質でしつこいと本に書いてあった。
「しかも、私の仕事の妨害ばかりするのですよ」
「ああ……使いをやったこともあったな」
「刺客か、スパイの間違いでしょう、まったく」
それは、マスターを殺そうとしたのだろうか。
それならば、あまり歓迎するべき客ではないのだが、私にとっては。
私は無言で男を見た。
捕らえどころのないような雰囲気だが、これがすべてではないだろう。
簡単に言うと、腹黒いというような。
「お互い様だろう。俺だって死に掛けたぞ」
「貴方が弱いだけでしょう」
「何も戦争中に送ることないだろうが」
「それだけ、うんざりしていたという事ですよ」
戦争中というのは、歯車戦争のことだろうか。
「そういえば、お前戦争中は何してたんだ? 見当たらなかったが」
「物騒な事に巻き込まれたくないので、隠れていましたよ」
「ルイ様は、何をしていたのですか?」
「俺か。俺は戦争に使われる機械人形を作っていた。ひたすらな」
作っては壊されて、壊されたものを集めて、また作って。
愛着というものなど、沸く暇がないのかもしれない。
この男も人形を作るという。ならば、私のようなのはいるのだろうか。
「ところでルイ、貴方今は人形を作っているのですか?」
男はすぐに首を左右に振った。
「いや。今は作っていないな。前に、一体だけ作ったきりだ」
「どのようなのを作ったのですか?」
「そうだな。かわいいというか、ぼけているというか……
家事が出来るのが、唯一の救いだな。戦闘もそれなりにこなせるが」
「おやまあ。貴方が主では可哀想ですねえ」
「お前の下にいる人形も、ある意味では大変だと思うが」
「貴方ほどではないですよ。共に暮らしているのですか?」
「面倒だから、首輪だけつけて、放し飼いにしてある」
「放置してるんですね」
「放任主義といってもらいたい」
なんというか、この男の下にいる人形も、色々と大変そうだ。
私は別に苦労をしているとは感じないけれど。
やはり、人間が一番恐ろしいのだろうか。
軽く頭の中を整理しながら、時計を見た。
時刻は、もうじき夕方になろうとしていた。
やはり険悪だとはいえ、一応は知り合いだからだろうか。
話が弾んでいたようだ。
「マスター、着替えてきますね」
「ああ、もうそんな時間ですか」
「着替え?」
首を傾げている男は置いて、私は着替えに行く。
あまり時間を掛けたくないので、手早く済ませる。
戻ると、男が驚いた顔をしていた。
「随分と早いな」
「貴方と違って、彼女は無駄がないんですよ。優秀ですから」
「ひどい言い様だな、さっきから」
「では、仕事に行ってきますね」
「はい。行ってらっしゃい」
私は、事務所を後にした。
機械人形がいなくなった部屋は、不気味な空気に支配された。
「へえ、仕事……ね。何やってるんだ?」
「そうですね、掃除ですよ、ゴミ掃除」
「潔癖症のお前らしいな」
「失礼な」
ルイが足を組みなおし、アルの方を見た。
鋭い視線を銀髪の男は真っ直ぐに見返した。
「それで、貴方の本題はなんですか? 様子見だけじゃないでしょう」
「まさか。俺はお前の様子を見に来た。まあ、それ以外にもあるがな」
ルイはアルの目の前で、腕を組んだ。
「どうだ、俺と仕事をしないか?」
「断ります」
間髪いれずに、アルは即答をした。
「こんな場所など捨てて、いくらでも仕事はあるぞ」
「だから、貴方となんてお断りだと言っているのですよ。理解できませんか」
意外に頑固だな……といいながら、ルイはなおも続けた。
「何がお前を此処に繋ぎ止めている?」
「貴方には、関係のない話ですよ」
心底嫌そうにしながら、アルは言った。
「なら、その糸解いてやろうか?」
愉快そうに笑いながら、ルイは言う。
「余計なお節介は結構ですよ。また貴方は私のものを壊すのですか?」
「さあな? 俺は壊さない。掻き乱すだけだ」
「どちらも似たようなものでしょう。結末には終わりしかない」
「俺は壊すだけだ。終わりを齎すのは俺じゃない」
そこでいったん言葉を切って、また続ける。
「終わらせるのは、お前自身だ。いつだって、な」
「貴方が壊すのがいけないのでしょう」
「壊れたら、直せばいいだけだろう?」
「修復不可能にするのは、どちら様ですかね」
「相変わらず、いい性格だな、アル」
「貴方こそ……ね。ルイ」
苦々しい表情をしながらも、アルは窓の外を眺めた。
「そろそろ、帰ったらどうです? 直に夜ですよ」
「ああ。いい加減帰るとするかな」
「他の場所へ行くのですか?」
「なんだ、泊めてくれるのか?」
「ふざけないでください。ストーカーなんか泊めるはずないでしょう」
「まあ、予測はついたがな。街の宿屋にしばらくはいる。用があったら来い」
「一生ないでしょうね」
「手厳しいことで」
「それはどうも」
さあ、といいながらルイを追い払うような仕草をするアル。
「それじゃあ、また、な」
「二度と会いたくはありませんがね、そうもいかないでしょう」
こうして、闖入者は事務所を去った。
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